平安は主のもとに            ルカの福音書23章39~49節

2026年3月29日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 私たちを自らの人生の瞬間を、どのように迎えるでしょうか。イエス様とともに十字架につけられた二人の犯罪人の姿、さらにイエス様ご自身の姿から学びたいと思います。

【1】 二つの反応
 イエス様と一緒に二人の犯罪人が一人はイエス様の右に、もう一人はイエス様の左につけられました。この二人は二人ともかつて罪を犯し、同じように十字架につけられ、同じようにイエス様と出会いました。しかし二人は全く違う反応を見せました。一人はイエス様を拒絶し、もう一人はイエス様を信じ受け入れました。そして罪赦されて永遠に生きる特権を与えられました。何が違ったのでしょうか。
 第一の犯罪人には三つの特徴が見られます。第一に彼には神に対する恐れがありませんでした。彼がイエス様に向かって「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った時、もう一人の犯罪人に「おまえは神を恐れないのか」とたしなめられています。彼には神に対する恐れが全くありませんでした。
 第二に彼には罪の意識がありませんでした。犯した罪ゆえにさばかれて十字架につけられているのに、反省する様子が全く見られません。そして第三に彼は傲慢でした。「自分とおれたちを救え」とイエス様に向かって命令しています。何と傲慢な態度ではないでしょうか。
 この男は生涯、自分本位に生きてきました。自分の思いのままに生き続けてきました。そんな彼の生き様が、人生の最後の瞬間に表されたのです。
 その一方で、もう一人の犯罪人は神に対する恐れを持っていました。さらに彼は自分の罪深さをよく自覚していました。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と口にしているからです。そして彼は謙虚でした。イエス様に向かって「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」とお願いしているからです。
 それゆえに彼はイエス様を信じ受け入れることができました。その彼にイエス様は宣言されました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(43)。」 その信仰のゆえに彼は主とともに永遠に生きる者とされたのです。
 一人の犯罪人はイエス様を信じてパラダイスに移され、もう一人の犯罪人はイエス様を拒絶して、自分の罪の中で死んでいきました。私たちは二人のうちどちらでしょうか。ぜひ私たちは神を恐れ、自らの罪を知り、そしてイエス様を信じ受け入れましょう。そして主とともにパラダイスに移される者となりたいと思います。

【2】 イエスの最期
 イエス様ご自身はどのような人生の最後を迎えられたのでしょうか。イエス様が十字架上で最後に語られたことばは「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」との一言でした。このことばをイエス様は十字架上で、大声で叫ばれました(46)。
 どうしてイエス様はこのことばを大声で叫ばれたのでしょうか。与えられたつとめを果たし終えた後の安堵感でしょうか。苦しみから遂に解放されることの喜びでしょうか。最後までともにいてくださった神に対する感謝でしょうか。
 ここでイエス様が語られていることばは実は、詩篇31篇5節の引用であることがわかります。

「私の霊をあなたの御手にゆだねます。まことの神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいます。」

 この歌は、ダビデによって歌われた贖い主なる神様をたたえる賛美であることがわかります。イエス様は人生の最後の瞬間に、自らを救い出してくださる主を覚えて大声で賛美したのです。
 イエス様の人生は賛美で終わりました。人生の最後を賛美で終えることができるなんて、何と幸いな人生ではないでしょうか。
 そしてイエス様は「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と神様に語りかけました。イエス様にとって神様は最後まで「父」でした。十字架上の激しい苦しみを経ても、イエス様の父なる神様に対する信頼は全く変わりませんでした。そしてイエス様は自らの霊を父なる神様の御手にゆだねることができました。人生の最後の瞬間に、安心して、自らの霊を委ねることができたのです。何と平安に満ちた最後だったでしょうか。

【3】 むすび
 神を信じるとは、神に対して信頼することです。クリスチャンらしく立派に振る舞うことではありません。どんな時にもおゆだねできる方を知っていること、この方にいつも信頼して歩むことです。
 この方との関係は私たちがイエス・キリストを信じた時に始まり、その後、生涯に渡って変わることはありません。私たちの死の時も変わりません。イエス様を信頼しましょう。この方に心を開きおゆだねしながら歩んでいきましょう。