2026年2月15日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)
【1】 世に憎まれる
ヨハネはここで「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」と教えました(13)。これは「世があなたがたを憎んでも不思議なことではありません。それは想定内のことです。ですから想定外のことが起きたかのように驚いてはいけません」との意味です。
なぜキリスト者はこの世から憎まれるのでしょうか。第一に世の行いが悪く、信仰者の行いが正しいからです。カインがアベルを殺すほどに憎んだのはカインの行いが悪く、アベルの行いが正しかったからです(12)。主にあって義とされたキリスト者はこの世の人々に、自らの罪を意識させる存在なのです。
二番目にキリスト者はこの世の者ではないからです。イエス・キリストによって選ばれた私たちはこの世から救われて、御国の民とされました(ヨハネ15:19)。私たちはこの世にあって異質な存在です。その違いのゆえに私たちは憎まれます。それゆえにこの世が私たちを憎んでも驚く必要はないのです。
【2】 死からいのちに
大事なのは御国の民とされた特権をいつも覚えている、ということです。御国の民にはどのような特徴が見られるのでしょうか。第一に彼らは死からいのちに移されました(14)。イエス・キリストを救い主として信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています(ヨハネ5:24)。死に対する解決が与えられているのです。
しかもそのいのちは死んだ時に与えられるものではなく、信じたその時にすでに与えられるものです。生きている間中、キリストの新しいいのちに生かされるのです。
【3】 兄弟を愛する
御国の民に見られる二番目の特徴は兄弟を愛している、ということです。イエス・キリストによって愛された彼らは、その愛をもって自発的に積極的に兄弟を愛します。
ヨハネは14節で「兄弟を愛しているから(・・)です」と語っています。兄弟を愛していることが、彼らが死からいのちに移されたことの理由であることがわかります。逆に兄弟を愛さない者は死のうちにとどまっています。つまり、その人が本当に死からいのちに移された信仰者であるかどうかは、その人の生き方を見ればわかる、ということです。兄弟を愛しているというその姿に、その人が本当に新生した信仰者であるかが表されるのです。
私たちは兄弟を愛しているでしょうか。私たちは愛されたいと願っているのに、なかなか愛そうとしません。それでは私たちは死のうちにとどまっていることになるのではないでしょうか。
【4】 兄弟を憎む者
聖書はさらに私たちの内面を鋭く照らします。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです(15)。」 例え実際に殺人を犯していなくても、心の中で人を憎むならば、それは人を殺したのと同じです、と聖書は教えます。私たちは一体今まで何度、心の中で人を殺してきたのでしょうか。そのような者に、永遠のいのちがとどまることはないのです。
聖書は私たちがあまり見たくない、触れられたくない、話題にもして欲しくない罪人としての私たちの内側の姿を、容赦なく明らかにします。それゆえに私たちは辛い気持ちになることがあると思います。しかし、そこに神様の愛の招きがあります。「汚れ、歪み、傷ついたその心をそのまま私に差し出しなさい。私が私の愛であなたを満たします」と主は語っておられるのです。私たちのその罪をすべて背負い十字架にかかるために、そして私たちの心に平安を与え、私たちの人生を喜びで満たすために、イエス・キリストは私たちの前に現れたのです。
【5】 むすび
愛さない者は死のうちに「とどまって」います、とヨハネは語りました。本来の信仰者はキリストのうちに「とどまり」、御霊が私たちのうちに「とどまっている」はずです。それが本来の信仰者の姿です。
ところが私たちはキリストのうちにとどまらず、御霊を私たちのうちから追い出して、相変わらず古い自己中心の自分自身にとどまり続けます。そして兄弟を愛そうとせず、兄弟を憎み、死のうちにとどまり続けます。せっかくイエス・キリストを信じた時に死からいのちに移されたはずなのに、私たちは変わらずに死のうちにとどまり続けてしまうのです。
そんな罪深い私たちのためにイエス・キリストは来てくださったのではないでしょうか。そんな私たちの前にイエス・キリストの十字架は今も掲げられているのではないでしょうか。
イエス・キリストはご自身の愛によって私たちを満たし、ご自身のいのちによって私たちを生かしたいと願っています。私たちが自己中心を捨ててイエス・キリストを私たちの心に迎え入れようではありませんか。聖霊なる神様に私たちの心の中に住んでもらおうではありませんか。死からいのちに移された者として、愛さない者ではなく、愛する者としていただきましょう。