2025年6月29日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)
前回の説教(1:5~7)を通して、信仰者と呼ばれる人には「闇の中を歩む者」と「光の中を歩む者」の二つのタイプがあることを学びました。しかし、それらは具体的にはどのような歩みなのでしょうか。今日の箇所を通して私たちが自分の罪とどう向き合い、どう対処するかにかかっていることがわかります。
【1】 もし自分には罪がないと言うなら
「闇の中を歩む者」とは、どのような者でしょうか。それは「自分には罪がない」と言う人です。私たちは喧嘩や口論をする時に、ある一つの主張をしています。それは「私は悪くない。悪いのはあなただ」という主張です。そのようにして「自分には罪がない」と言っていることが多いのではないかと思わされます。
しかし聖書によるとそんな時、私たちは自分自身を欺いているのです。私たちは神を欺くことはできませんが、自分を欺くことはできます。自分を欺く方法をたくさん知っているのではないでしょうか。ある時は自分の罪を隠したり、ある時は言い訳をしたり、他人に責任転嫁したり、被害者意識に捕らわれたり、「詫びる」「謝る」という方法を通してさえも自分を欺いてしまうことがあります。
そんな状態の時、私たちのうちに真理はありません。「自分は悪くない」「自分は正しい」とどんなに主張しても、神の目から見たならば、私たちのうちに真理はないのです。
【2】 もし私たちが自分の罪を告白するなら
一方で「光の中を歩む者」とはどのような人でしょうか。それは自分の罪を告白する人です。つまり「光の中を歩む」とは、罪と無縁の生活をすることではありません。罪を犯すところまでは「闇の中を歩む者」も「光の中を歩む者」も同じです。しかし、光の中を歩んでいる人は罪が示された時に告白します。
「告白する」とは、心の中にあることをそのまま言い表すことです。その時に何が起きるのでしょうか。神がその罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。神が真実で正しい方だからです。
神が真実で正しい方であるなら、罪が明かになった時に私たちはむしろさばかれてしまうのではないでしょうか。確かに神は真実で正しい方です。私たちの隠された罪を大目に見ることはしません。必ずふさわしいさばきを下されます。
しかしキリストが代わりにさばかれました。私たちの罪のすべてを背負って、私たちの身代わりとなって神にさばかれたのです。それゆえに、私たちのすべての罪の問題は解決されたのです。そのイエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、私たちは救われました。
よって私たちが罪を犯してももしその罪を告白するならば、私たちの罪は赦されます。そしてすべての不義からきよめられます。このように恵み深き神様との関係に生かされ、恵みの中で成長していく人が、光の中を歩む者なのです。
【3】 もし罪を犯したことがないと言うなら
しかし問題なのは、このような恵みを受けた上で変わらずに罪の中にとどまり続けてしまうことです。ヨハネは10節において闇から光に移されたにも関わらず、さらに闇に戻ってしまう人のことを指摘しました。それは「罪を犯したことがない」と言う人です。
8節で指摘されていたのは「自分には罪がない」と言う人についてでした。10節で指摘されている人は、自分は罪人であるとの自覚はもっているようです。しかしその上で「罪を犯したことがない」と言います。品行方正でまじめに生きてきたのかもしれません。
しかし、その人は「罪を犯したことがない」と言い張ることによって、「すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)」と語られる神を偽り者にしてしまいました。その時に、その人のうちには神のことばがありません。真理である神のみことばがその人のうちにないので、その人が真理になってしまいます。みことばが真理ではなく、みことばを信じるその人が真理になってしまうのです。
【4】 むすび
ダビデは罪赦された者の幸いについて詩篇32篇で歌いました。「幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は(1)。」 ダビデはかつて自分の中にある罪の意識に苦しみましたが、それらを告白した時に、主によって赦されるという恵みを体験しました。
その一方で箴言28章13節には、罪を隠し放置してしまう人の不幸が指摘されています。「自分の背きを隠す者は成功しない。」 罪を隠し、自分の中で温存したり放置したりする人から、祝福は確実に去ります。その状態で喜びに満たされることはありません。
ヨハネがこの手紙を書き記した目的は「私たちの喜びが満ちあふれるため」でした(4)。そのためには光である神の光に照らされる必要があります。闇の中ではなく、光の中を歩むことが大事です。それは自分の罪を告白することです。
罪が示された時に自分を欺いたり、神を偽り者としたりしないで、心の中にあるものを神の御前に正直に打ち明けましょう。真実で正しい神にしっかりと赦していただき、喜びに満ちあふれようではありませんか。