2026年2月1日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)
「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。(10)」 この世には「神の子ども」、「悪魔の子ども」と呼ばれる人々がいることがわかります。両者の区別ははっきりしています。両者の区別を明確にした上で、ヨハネは私たちに「悪魔の子ども」にならないように、そして「神の子ども」となりなさい、とここでメッセージを語っているのです。
【1】 悪魔の子ども
「悪魔の子ども」とは、どのような人でしょうか。「悪魔の子ども」とは「罪を犯している者」であり、「悪魔から出た者」です(8)。悪魔は自分でも初めから罪を犯しており、人にも罪を犯させます。
エデンの園において蛇はエバに向かって「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と語りかけ、エバの心のうちに神のことばに対する疑念を抱かせました(創世記3:1)。サタンはイエス様に向かって「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と語り、自分の力により頼ませようとしました(マタイ4:3)。悪魔は私たちのみことばに対する信頼を壊し、自分自身の力により頼ませます。そのようにして私たちを神から引き離し、神に反逆する者にしてしまうのです。
次に「悪魔の子ども」とは「義を行わない者」です(10)。「義を行わない者」とは「神のみこころを行わない者」、「神様との関係において正しくない者」との意味です。神から離れて自分勝手な道に進んでいった私たちは、神のみこころを行うことができません。
そして最後に「悪魔の子ども」とは「兄弟を愛さない者」です(10)。「兄弟を愛せない」のではなく「兄弟を愛さない」のです。自覚的に、当然のように兄弟を愛さないという選択をします。相手に対する憎しみや敵意を隠し持ちつつ、いつまでも人を赦そうとしません。その人は闇の中にいて、闇の中を歩んでいるのです(1:11)
これらが「悪魔の子ども」に見られる特徴です。私たちは果たして「悪魔の子ども」になっていないでしょうか。
【2】 神の子ども
一方、「神の子ども」とはどのような人でしょうか。「神の子ども」とは「神から生まれた者」です。彼らは罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです(9)。さらにこの人は罪を犯すことができません。神から生まれたからです。
そんなことが本当にあり得るのでしょうか。あり得る、と聖書は私たちに教えています。「神の種がその人のうちにとどまる」とは、神のいのちに生かされている状態を表します。種にはいのちがあります。そして種とは神のことば、みことばを表します。
もしみことばが私たちのうちにとどまるならば、私たちは神のいのちに生かされます。それゆえに罪を犯すことはありません。イエス・キリストのいのちによって生かされる新生を経験しているために、もはや罪を犯すことができないのです。このように「悪魔の子ども」と「神の子ども」の違いは明らかです。
【3】 神の御子が現れました
私たちは「神の子ども」でいたいのですが、しかし実際には「悪魔の子ども」になってしまいます。自らの内側から湧いてくるむさぼりの思いや高ぶりの心から、離れられません。頑なで我儘で自分勝手な性質から、逃れられません。そして私たちは闇の中にいて、どこに向かったらいいのか、誰を頼りにしたらいいのかわかりません。闇の中を歩んでしまっているのです。
しかしそれゆえに、私たちに救い主が必要であることがわかります。救われなければならない存在である、との自覚が与えられます。
キリストは何のために来られたのでしょうか。「悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。(8)」 神の御子が闇の中にいる私たちの前に光として現れました。私たちが悪魔によって完全に支配され悩み苦しんでいるその場所に、主は現れてくださったのです。
それは悪魔のわざを打ち破るためです。人を神から離反させ、人々を罪の虜とし、永遠の滅びへと至らせる悪魔のわざを、イエス・キリストが十字架のみわざによって打ち破ってくださったのです。悪魔の獄(ひとや)を打ち砕き、虜(とりこ)を放つために(讃美歌「もろびとこぞりて」2節)、救い主は私たちの前に現れました。十字架はまさに勝利なのです。
【4】 むすび
私たちは「神の子ども」でしょうか。それとも「悪魔の子ども」でしょうか。ぜひ「神の子ども」にしていただきましょう。罪から完全に解放され、イエス・キリストのいのちに生きる「神の子ども」としていただきましょう。
そのために「神の種」であるみことばを、私たちの内側にしっかりととどめようではありませんか。