神の光の中を歩む            ヨハネの手紙第一1章5~7節

2025年6月22日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 ヨハネがこの手紙を書き送る理由は、「私たちの喜びが満ち溢れるため」でした。私たちの喜びが満ち溢れるために、何が必要でしょうか。

【1】 神は光です
 ヨハネは5節で大切な「使信」を伝えました。「使信」と訳されていることばは、「メッセージ」あるいは伝えなければならない「大切な知らせ」を意味することばです。 
 その使信はなぜ大切なのでしょうか。ヨハネがキリストから直接聞いたメッセージだったからです。そのメッセージを彼は今、教会の信徒たちに伝えています。それはイエス様から託されて、人々に伝えなければならない大切なメッセージでした。それはどのようなメッセージだったでしょうか。

「神は光であり、神には闇が全くないということです。(5)」

 ヨハネはヨハネの福音書においても、イエス様が光であることを伝えました。道を照らすともしび、真理、いのち、希望、幸い…いろんなものが「光」ということばで表されています。神はそのような光としてのご性質をもっておられるお方です。
 しかしこの文脈においては特に「きよさ」が意識されています。なぜなら神が光であるとの事実が、「神には闇が全くない」とのことばとセットになって紹介されているからです。神には闇の部分が一つもありません。闇と妥協することも、闇と同居することもありません。それは神が罪とは無縁な完全にきよいお方であることを表しています。
 ヨハネはこの手紙の後半において「神は愛です(4:16)」と語り、愛である神について教えています。しかし、その前に神が光であることを教えました。神の愛に生かされるために、まず神の光に照らされる必要があるからです。神の光に照らされなければ、私たちは愛において成長することはできません。

【2】 闇の中を歩む者
 ヨハネは次にクリスチャンと呼ばれる人には二通りの人がいる事実を伝えています。第一に「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいる人(6)」がいます。
 この人の特徴は偽りを言っていて、真理を行っていないということです。口で語っていることと、実際の行いが一致していません。神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるわけですから、その人は確かに偽りを言っていることになります。そしてみことばに示される真理の道ではなく、自分中心の道を歩んでいます。
 なぜ信仰者でありながら、私たちは闇の中を歩んでしまうのでしょうか。それは闇の中にいた方が自分の罪を意識することなく気楽だからです。光に照らされた途端に自分の罪が強く意識されてしまうからです。よって私たちは光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ないのです。(ヨハネ3:20)
 
【3】 光の中を歩む者
 その一方でもう一つのタイプのクリスチャンもいます。それは「神が光の中におられるように、光の中を歩む人(7)」です。
 この人はまず、神との互いの交わりを持つようになります。互いの交わりなので、それは一方通行ではなく双方向の交わりです。神に語られ、自分も語り、神との親しい交わりを経験することができます。
 さらにその人は御子イエスの血によってすべての罪からきよめられる恵みを経験することができます。神の光に照らされたなら、そこで私たちは必ず自分の罪を自覚します。しかしその罪は神との関係の障害にはなりません。なぜなら、私たちは罪の赦しを経験し、罪がきよめられていく恵みをも経験できるからです。
 それは御子イエス様が私たちのために十字架上で肉体を裂かれ、血を流してくださったからです。その御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。今もきよめ続けてくださいます。このイエス・キリストにあって私たちは、父なる神との親しい交わりの中に生かされるのです。

【4】 むすび
 私たちはどちらのクリスチャンでしょうか。「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩む」クリスチャンでしょうか。それとも「神が光の中におられるように、光の中を歩む」クリスチャンでしょうか。
 神は光です。その光は私たちの罪を明らかにする光です。同時にそれは私たちの罪を赦し、きよめる恵みの光です。その光に照らされることによって私たちは罪が赦され、きよめられていく恵みを経験します。そして神との互いの交わりを経験し、さらに人との互いの交わりにも開かれていきます。光に照らされて初めて、私たちは互いに愛し合う者に変えられていくのです。
 神の光の中を歩み、きよめられ続けましょう。そのようにして神との互いの交わりに生かされ、人との交わりにも生かされる者としていただきましょう。