2025年4月27日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)
【1】 さえぎられていた目
今日はエルサレムからエマオという村に向かって歩く二人の弟子に、復活されたイエス・キリストが同行される、という話です。読んでみて不思議な感じのする記事です。まず不思議なのは、なぜ二人はイエス様に気づかなかったのでしょうか。
二人で話し合いながらエマオに向かう途中、イエス様が近づいて来て彼らとともに歩き始められました。彼らはイエス様の顔を忘れたわけではないと思います。イエス様の顔つきや風貌が変わってしまったわけでもないと思います。以前と同じイエス様なのに、そのイエス様と話しながら歩んでいるのに、二人はその人物がイエス様であると気づかないのです。そんなことがあるのでしょうか。
聖書には「二人の目はさえぎられていた(16)」と記されてあります。私たちも自分の目がさえぎられてしまうと、見えるはずのイエス様が見えなくなってしまうことがあります。イエス様は必ず私たちとともにいてくださるのに、そのことが本当に見えているでしょうか。
【2】 何のことですか どんなことですか
それにしてもイエス様は気づいていない二人に対して、自分がイエスであることをなぜ教えてあげないのでしょうか。その代わりに「歩きながら語り合っているその話は何のことですか」「どんなことですか」と二人に尋ねました。何を話しているのかイエス様は十分にご存知なのに、なぜそう問いかけたのでしょうか。
イエス様に尋ねられ、二人はそれまでに起こったことを話し始めました。彼らはイエス様こそはイスラエルを解放する方だと望みをかけていたのにそのイエス様が十字架につけられて死んでしまったこと、ところが三日後に仲間の女たちがイエスは生きていると告げたこと、仲間の弟子たちが墓に言ってみたところ確かにイエス様のからだは見当たらなかったことについて、イエス様に告げました。
二人の証言を通してこの数日間に、彼らがいかに落胆し、戸惑い、動揺したかがよく伝わってきます。彼らの目がさえぎられていた理由もよくわかるのではないでしょうか。そのようにして彼らは心の内にたまっていた複雑な思いをすべて、イエス様の前に吐き出しました。
自分の思いをイエス様に伝えることによって、彼らは少しずつ心の整理がついていったのではなかったでしょうか。実はそれがイエス様を本当に知るための準備でした。その間イエス様はひたすら二人の話に耳を傾け、彼らの思いを受け止められました。イエス様は私たちの思い煩いをしっかりと受け止めてくださるのです。
【3】 心は内で燃えていた
後に彼らは「私たちの心は内で燃えていたではないか」と告白します。ともにおられるのがイエス様であると自覚できていないのに、心だけは燃えていた段階が二人にはあった、ということがわかります。何が彼らの心を燃やしていたのでしょうか。
イエス様が道々お話しくださる間、聖書を説き明かしてくださる間、彼らの心は燃やされました。二人の話を聞かれた後、イエス様は彼らの心の鈍さを指摘され、そして聖書全体に書いてあることを説き明かされました。特に聖書全体がイエス様を中心として一つにつながっていることを説き明かされました。
彼らの整えられた心にイエス様による聖書の説き明かしがなされ、みことばが心にしみわたるように伝えられていったのです。心が燃やされるという彼らに与えられた経験は、彼らの知っているあのイエス様が聖書で示されること本当のメシアであることを知った時に与えられた経験だったのです。
【4】 開かれた目
彼らが宿を取り食卓を共にし、イエス様がパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された時に、彼らの目が開かれました。目の前に座っている人物がイエス様であることが遂にわかりました。イエス様がパンを裂いて渡すその姿に、最後の晩餐の時のイエス様の姿を彼らは思い出したのではなかったでしょうか。
そのようにして食卓の親しい交わりの席において、イエス様はご自身の姿をはっきりと示してくださいました。そして彼らのふさがれた目を開いてくださいました。イエス様を私たちが知るためには、私たちの目も開かれる必要があります。自分で見えると思っているうちは、イエス様のことを実は本当にはわかっていないのです。
二人の目が開かれた時に、イエス様の姿が見えなくなりました。しかしそれは二人にとってあまり重要なことではなかったようです。彼らはただちに立ち上がりエルサレムに戻って、イエス様が復活された事実を他の弟子たちに伝えました。イエス様を本当に知った喜びは、彼らにとって肉眼でイエス様を見ること以上に大きな喜びだったのです。
私たちは果たしてイエス様が見えているでしょうか。聖霊なる神が聖書を私たちに悟らせ、イエスがともにおられることをはっきりと教えてくださいます。私たちも実は盲目であることを自覚しつつ、私たちに真理を示してくださる聖霊の導きに拠り頼もうではありませんか。