帰って来た放蕩息子            ルカの福音書15章11~24節

2025年12月14日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 有名な「放蕩息子」の場面です。この話の中で父親は神様を、息子は私たち人間を表しています。神と人間の関係について教えられる話なのですが、同時に私たちの親子関係についても多くを教えられます。

【1】 去っていった息子
 ある人に息子が二人いました。ある日、弟は父に「お父さん、財産のうち私がいただく分をください」と言って、父の財産の分け前を要求しました。父が亡くなった後に遺産として相続される分を、父がまだ生きているのに要求したのです。
 この息子にとって父とはどのような存在だったのでしょうか。息子である自分に対し、財産を当然のようにくれる存在と見なしています。それは息子としての当然の権利であると彼は考えていたのです。
 それから幾日もしないうちにこの息子は「すべてのものをまとめて」遠い国に旅立ちました。「すべてのものをまとめて」出て行ったとは、もう二度と自分の家に帰ってくるつもりはなかった、ということです。しかも「遠い」国に旅立って行きました。この「遠い」ということばは、地理的な遠さ以上に心理的な遠さを感じさせられます。息子はとにかく父親の影響の全く及ばない遠く離れたところに行きたかったのです。この息子にとって父とは、ひたすら邪魔な存在だったのです。
 遠い国にたどりついて彼は何をしたでしょうか。放蕩して、父からもらった財産を湯水のように使ってしまいました。自らの欲望を満たす快楽のために、使い果たしてしまったのです。なぜそんな愚かなことをしてしまったのでしょう。父の束縛から解き放たれて、自分の思い通りにお金を使える自由を満喫したかったのではなかったでしょうか。
 しかし、その結果彼はすべてを失いました。ちょうど、そのタイミングでその国に大飢饉が起きました。彼は食べるにも困り果てたのです。その後、彼は豚の世話をすることになりました。彼はどんなに惨めだったでしょうか。失ったものは父から与えられた財産だけではありませんでした。社会的立場も、人気や名声も、友人も、プライドもすべてを失ったのです。すべては父親に背を向けて自分勝手な道を歩んできたことが原因です。
 私たちにとっての神とはどのような存在でしょうか。もしかすると私たちにご利益をくれる存在かもしれません。私たちは神に向かって当然の権利であるかのようにして、ご利益を要求します。しかし同時に神は私たちにとって邪魔な存在です。自分の自由を束縛してほしくないのです。結局、私たちは神に背を向けてひたすら自分勝手な道を歩み、その結果、神の祝福を失ってしまうのです。

【2】 落ちぶれた息子
 この息子はすべてを失って大事なことに気づきました。彼は「我に返った」のです。自分自身の本当の姿に、その時、初めて気づいたのです。
 さらにその時に二つのことが見えて来ました。父のところにはパンが有り余っている雇い人がたくさんいること、それなのに自分はここで飢え死にしようとしていること、その両方が見えてきました。そしてその時彼は思いました。「立って、父のところに行こう」。父の下に帰ることが、彼がその時一番しなければならないことであると、彼は遂に気づいたのです。
 私たちも挫折や失敗の中で、自分の生身の姿や、自分の本当の必要に目覚める時があるのではないでしょうか。それも実は神の恵みなのです。
 
【3】 帰って来た息子
 息子は父の下に向かう道中、不安がありました。こんな惨めな自分を父は受け入れてくれるだろうか。父が自分を息子として受け入れてくれるとは、彼にはとても思えませんでした。ですから雇い人の一人にしてもらうつもりで、父の家に向かいました。
 驚くべきことが起きました。まだ家までは遠かったのに、父は遠くから彼を見つけたのです。それは父が彼の帰りを毎日待っていた、ということを表しています。そして彼を見てかわいそうに思い、駆け寄って来て彼の首を抱き、口づけしました。赦しを乞おうとする息子のことばを遮って父は一番よい服を彼に着せて、手に指輪をはめて、足に履き物をはかせ、そして大宴会を始めました。
 彼が過去にどんなに大きな罪を犯したのか、過去に彼がどんなに愚かだったのか、この時の父にとってはどうでもよいことでした。ただ彼が悔い改めて、父の下に戻ってきてくれたことで、もう十分だったのです。

【4】 むすび
 この父親の姿こそは、私たちの神の姿です。私たちの神様は、どんなに私たちの心が神様から離れようと、私たちを忘れたことは一度もありません。毎日、私たちの帰りを待ち続けています。
 そしてもし私たちが悔い改めて神の下に帰るなら、神は私たちのすべての罪を赦し、私たちを自分の子どもとしてしっかりと受けとめてくださいます。どんな大きな罪でも、赦されない罪はありません。ぜひこの方の下に帰りましょう。そして父なる神との親しい交わりの中で生かされる者となりましょう。