2025年11月16日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)
【1】 自分の罪を知る
信仰者である私たちには、キリストの現れの日にキリストに似た者とされる希望が与えられていること、その日に向けて自分を清くすることが求められていることを、前回私たちは教えられました。
それでは自分を清くするためには、どうすればいいのでしょうか。まず自分の罪を知る必要があります。
「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。(4)」
ヨハネはここで罪について定義しています。罪とは律法に違反することです。神様はモーセを通してイスラエルに十戒を与えられ、律法を授けられました。律法には神様のみこころと基準が示されています。その神様のみこころと基準に反すること、それが罪であることがわかります。
律法と罪の関係についてパウロは「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした」と語っています(ローマ5:20)。確かに律法があるからこそ私たちは自分の罪をはっきりと自覚します。みことばが語られるからこそ、違反者としての自分がよく見えてきます。神の基準がそこで示されるからこそ、その基準に達することができない私たちがよくわかるのです。
日本人である私たちは罪を自覚して悔い改めるよりも、水に流して、お祓いをしてもらうことによって身を清めてもらうことの方を好むかもしれません。しかし水に流すことのできない、お祓いによっても清められない深刻な病を私たちは皆、抱えています。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」と言われました(マタイ9:12)。罪という深刻な病を自覚するからこそ、私たちは医者を求めることができるのです。
【2】 キリストを信じる
私たちを癒してくださる医者とはどなたでしょうか。それはイエス・キリストです。キリストについてヨハネは「キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません」と語りました(5)。キリストは「世の罪を取り除く神の子羊」です(ヨハネ1:29)。
旧約時代の礼拝において、人々は牛や羊などの家畜を自分の罪の身代わりのいけにえとして神様にささげ、そのことによって罪を赦してもらっていました。同様にキリストも私たちの罪を赦すための身代わりのいけにえになられたのです。神様は罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。そのことによって私たちを救いに導いてくださったのです(IIコリント5:21)。
死に至る病である罪を取り除くために、神様はキリストを私たちに送ってくださいました。この方をぜひ信じ受け入れ、そしてこの方にとどまり続け、赦され清められる恵みを味わいたいと思います。
【3】 キリストを信じる者に見られる特徴
キリストを救い主として信じ、キリストにとどまる者には二つの特徴が見られます。第一に「罪を犯さない」という特徴です(6)。キリストを信じる者はもはや罪を犯しません。キリストにとどまることと、罪を犯すことは両立できないからです。私たちがキリストにとどまり、キリストのいのちに生かされる時に私たちはもはや、罪を犯さなくなるのです。
第二に「義を行う」という特徴です(7)。キリストにとどまる者はキリストが正しい方であるように、正しい人です。キリストを信じる信仰と、キリストを信じる歩みは一つです。信仰が必ず行いとして表されるのです。
【4】 惑わされてはいけません
ヨハネは7節で「幼子たち、だれにも惑わされてはいけません」と信徒たちに注意喚起を行っています。彼らはどのように惑わされる危険があったのでしょうか。行いを軽んじる信仰者になってしまう危険を、彼らは抱えていました。
当時の教会にとって脅威であったグノーシスは、目に見えないものを大切にする一方で、目に見えるものを軽んじる教えでした。目に見えない信仰を重んじる一方で、目に見える行いを軽んじる傾向が見られたのです。それゆえに信仰者たちは信じた後に、信仰の行いを軽んじてしまう危険にさらされていました。彼らの中には救われた恵みに感謝しながらも、その後逆に罪に鈍感になってしまい、行いを軽んじる人々も起きて来たのです。
私たちはどうでしょうか。救われた前と救われた後の生活に変化は見られるでしょうか。救われた恵みを喜びながら、救われた後は逆に罪に鈍感になり、救われる前と同様に我が儘で自己中心な生活を貫いてしまっているということになっていないでしょうか。私たちも惑わされないように、注意したいと思います。
キリストのうちにとどまり続ける私たちはキリストが正しい方であるように、正しい者たちです。キリストの新しいいのちと性質に生かされています。そして目標はやはりキリストです。キリストの似た者となることを目指しましょう。キリストのうちにとどまり続け、恵みの中で成長しようではありませんか。