2025年10月19日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(山村英夫師)
教会の中でよく使われることばの中に愛ということばがあります。愛があるとか、逆に愛がないとか、愛で満ちている教会だとか、愛ということばは普通に使われていることばで、私たちはこのことばを特別に意識して使っていないのかもしれません。聖書の中に書かれている当たり前のことばの一つとして捉えているのでしょう。
ヨハネの手紙第一4章7節では「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。……」と書かれています。この手紙の読者たちに対して、「愛する者たち」と呼ばれ、「互いに愛し合いましょう」と勧められています。確かに互いに愛し合い、愛に満ち溢れている教会ほどすばらしく、そして理想的な教会はありません。それほどに愛ということばはなじんでいるのです。
私たちはこの「愛する」ということばをどのくらい理解し、意識して使っているのでしょうか。聖書の中に出てくる「愛する」ということばの意味するところは、与えることを意味することばです。9節に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方のよって私たちにいのちを得させてくださいました。」とあります。ここで私たちが互いに愛し合える根拠として、まず神さまが私たちに「ひとり子」を与え、いのちを与えて下さったからです。したがって「愛する」ということばの意味は与えることだということがわかります。与えるということは、当然のことながら自分の持っているものを与えるということです。与えるからと言って、何でもかんでも無制限に与えることを期待されているのではありません
さて愛することが与えることであるということですが、与えるということは具体的にはどのような形をもって成されるのでしょうか。人を受け入れることと、赦すということの二つのことがあります。
まず第一の、受け入れるということから見ていきます。誰でも好き嫌いという気持ちを持っています。自分の好みに合う人がいる半面、どうしても好きになれない人もいます。そりが合わないとか、馬が合わないと言って人をえり分けてしまうことがしばしばあります。確かにそれは決していいことではありません。
ところが、主イエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。……」(マタイ11:28)と言われました。つまり主イエスは、誰でもご自分の所にいろいろな求めをもって集まってくる人々をえり好みしたり、分け隔てをするようなことはなさらなかったのです。これが受け入れること、つまり愛することなのです。したがって「互いに愛し合いましょう」というのは、互いに受け入れ合いしょう、という意味なのです。そうであったとしても、私たちは自分と考え方の違う人や、違った価値観を持っている人を受け入れるのに、しばしば困難を感じます。ヨハネはそれでも「互いに愛し合いましょう」と勧めているのです。私たちができない難しいことや困難なことを私たちに勧めているように見えます。
しかし神さまは私たちが互いに愛し合うことができるようにその根拠をも与えて下さっています。それは助け主である聖霊の働きです。ヨハネの福音書16章7節に「真理の御霊である助け主を遣わされる」ことが約束されています。そしてこの助け主である聖霊の働きは使徒の働き1章8節に「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。……」と書かれています。私たちは自分の力や自分のがんばりで互いに愛し合うのではありません。神さまご自身が助け主である聖霊を与えて下さり、その助けをもって互いに愛し合うことができるのです。
大切なことはできる、できない、ではありません。互いに愛し合いたいという志があればいいのです。神さまに対する信仰の志があるところに神さまは働いてくださるのです。
次に互いに愛し合うことのもう一つのことを見ていきましょう。赦すということです。これも実際に行うのは決して簡単なことではありません。人を憎んだり、ねたんだり、うらやんだりすることは特別に努力をしなくてもできます。自分に対して継続的に嫌なことをする人を赦すことは決して簡単なことではありません。
しかし神さまはこの部分に対しても働いてくださるのです。主イエスが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。……」(ルカ23:34)と叫ばれたように、神さまは私たちを赦そうとされています。互いに愛し合うとは私たちが自分の目の前にいる人を赦したい、という志を持つならば助け主なる聖霊の働きによって私たちは少しづつそのことができるようになるのです。なんと勝利に満ちたすばらしい生き方でしょうか。