主が家を建てるのでなければ           詩篇127篇1~5節

2025年1月5日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 主が家を建てるのでなければ
 127篇の著者であるソロモンは、「主が家を建てるのでなければ」「主が町を守るのでなければ」との言い方をして、それらが主の働きであることを私たちに印象深く伝えています。
 私たちが普段取り組んでいる働きは建てる働きと、守る働きです。私たちは家庭、生活、自分自身、そして教会を建て上げる働きに日々従事し、同時にそれらを守る働きにも取り組んでいます。その両方を成し遂げてくださるのは私たちではなく神ご自身なのです。
 もしそれらが主の働きでないとするなら、その働きは「むなしい」と1節の中で三回も繰り返されています。自分で苦労して成し遂げた働きが「むなしい」と言われてしまうことくらい私たちにとって悲しいことはありません。
聖書は私たち人間の努力を軽んじているのではありません。しかし私たちは神の前にいつも問われているのではないでしょうか。私たちは何のためにこの世に存在し、何のために生かされているのか。私たちの人生は一体誰のものなのか。
 私たちは神に造られた一人ひとりです。神の目的に添って、神のみこころに従って、神のご栄光を表すために生かされているのです。この神から切り離された人生の労苦は、一時的な満足はあっても必ずむなしさに行き着きます。私たちの今年一年の計画や働きのすべてを主の働きとして覚えましょう。そして是非、主に建てていただき、主に守っていただきたいと思います。
 
【2】 主は眠りを与えてくださる
 私たちの働きを主の働きとする時に、神はどんな祝福を私たちに与えてくださるのでしょうか。「実に、主は愛する者たちに眠りを与えてくださる(2)。」 神は私たちに眠りを与えてくださる方であることがわかります。毎晩、眠れぬ夜を過ごしている方々にとって、これは大切なみことばです。
 以前の聖書はこの一文を「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と訳していました。どちらの訳がふさわしいのか、翻訳者たちの間でも長年議論されてきた箇所です。ただし、どちらに訳しても同じことを伝えていることがわかります。
 私たちの眠っている間に神が備えをしてくださっていると知らされたならば、私たちはきっとよく眠ることができるでしょう。イエス様もこのように言われました。「人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません(マルコ4:26~27)。」 種を蒔くのは人のつとめですが、その後、その種を成長に導いてくださるのは神です。その種は人が寝ている間に、人の思いが全く及ばないところで神が成長させてくださっているのです。その理解があれば私たちは安心して眠りに着くことができるのではないでしょうか。
 むしろ私たちのつとめのすべてを自分だけの働きとして自分の手中に握りしめている時、自分の思い通りにいかないことが起こると私たちはすぐに不安になり、それゆえに眠れなくなってしまいます。私たちの思いを超えて神のみわざがなされていることを覚えましょう。神にゆだねましょう。そして神からしっかりと眠りをいただきたいと思います。
 
【3】 子どもたちは主の賜物
 後半の3~5節においては、子どもたちが主から与えられた賜物であることが教えられています。私たちの家を建てる働きと、町を守る働きはどこから始まるのでしょうか。私たちの家庭から始まります。どこか遠くで始まるのではありません。私たちにとって極めて身近な私たちの家庭から始まります。
 そして私たちの家庭の祝福は、子どもたちが神によって与えられた賜物であることを理解するところから始まります。逆に子どもたちを私たちの所有物であると思ってしまうところから家庭の悲劇が始まります。神は私たちに子どもたちを委ねられました。自分の所有物としてではなく、神から委ねられた大切な存在として子どもたちに愛情を注ぎ、育てていくことが親に委ねられたつとめです。
 4~5節で子どもたちは「勇士の手にある矢」に譬えられています。「若いときの子どもたちは、実に、勇士の手にある矢のようだ」。子どもたちの存在が親たちにとってどれだけ大きな励ましでしょうか。子どもたちの存在が親たちにとってどれだけ誇らしいことでしょうか。子どもたちによって家庭が祝されている時に、家庭は安泰です。どんな困難にも対処できる力強さがその家庭にはあります。
 聖書を読んでいると神の民としての共同体を構成している単位は、個人ではなく家庭であることに気づかされます。子どもたちにみことばを教える働きは、教会ではなく家庭から始まります。そのようにして家庭がみことばと祈りを中心として建てられていく時、それが結果的に教会の祝福につながるのです。
 私たちの家庭において、また教会において子どもたちは私たちにとってどれだけ「神の賜物」として顧みられているでしょうか。私たちの愛情の対象として覚えられ、どれだけ祈られているでしょうか。2025年のすべての計画を主に委ねましょう。それは主が成し遂げられる働きです。その働きを私たちにとって身近な家庭から始めていきたいと思います。