高ぶりの危険               ダニエル書5章17~31節

2025年1月19日 飯能キリスト聖園教会 主日礼拝説教要約(若井和生師)

 自分の殺害と帝国の滅亡の時が近づいているというのに、大宴会で大騒ぎするベルシャツァル。その姿が退廃するバビロンの末期症状をよく表しています。突然現れた人間の手の指が、壁に字を書くのを見て、ベルシャツァルの心は激しく動揺し、身体は震えました。彼が自らの信じる神々にも、人にも頼ることができなくて窮地に追い詰められた時、そこでダニエルが再登場します。
 王の頼りはダニエルだけでした。ベルシャツァルは、壁に書かれた文字の意味を解き明かしてくれることをダニエルに期待するのですが、結果的に王はその日の夜に殺されてしまいます。そしてバビロンは滅びました。神のさばきが彼と彼の帝国にくだされたのです。どうしてでしょうか。

【1】 心を低くしない
 第一に王は心を低くしませんでした。ダニエルは彼に言いました。「あなたはこれらのことをすべて知っていながら、心を低くしませんでした(22)。」 「これらのこと」とはネブカドネツァル王にかつて与えられた経験を表しています。
 神はネブカドネツァルを祝福し、国と偉大さと栄光と威光とを彼にお与えになりました。ところがそれゆえに彼は高ぶり、霊は頑なになり、高慢になってしまいました。その結果、神は彼を王座からひきずり降ろし、人の中から追い出し、彼は獣のようになってしまいました。神のさばきが彼にくだったのです。
 しかし、その時に彼は遂に知りました。いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを。神の厳しいさばきを受けて初めて、彼の目は開かれたのでした。
 ベルシャツァルはそのことを実は知っていました。それなのに心を低くすることがありませんでした。人が高ぶる時に神はその人を必ず退けられることを、ネブカドネツァルの姿を通して知らされていたのに、そこから学ぶことをしなかったのです。

【2】 天の主に向かって高ぶった
 次に王は天の主に向かって高ぶりました。その高ぶりは、ネブカドネツァルを凌ぐ程の高ぶりだったのです。彼は宮の中に収められていた器を彼の前に持ってこさせました。その器はかつてエルサレムの宮に収められていた器であり、ネブカドネツァルによってバビロンに持ち運ばれていたものでした。その器によって彼は貴族たちや側室、侍女たちと酒盛りを始めたのです。そして異教の神々を賛美しました。
 人間の手の指が現れたのは、丁度その時です。その指は壁に「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」と記しました。それはアラム語で「数えた、数えた、量った、そして分割した」という意味です。神がベルシャツァルの治世を数えて終わらせたこと、神の秤で量られて目方の足りないことがわかったこと、そして国が分割されてメディアとペルシアに与えられることを告げる神のさばきの宣告だったのです。
 彼は天の主に向かって高ぶりました。そして宮の器で酒を飲み交わし、異教の神々を賛美し、真の神をほめたたえませんでした。神を冒瀆するというネブカドネツァル以上の高ぶりを見せたのです。その高ぶりの罪に対して、神のさばきの宣告がベルシャツァルにくだされました。

【3】 悔い改めの拒否
 神のさばきが彼の上にくだされたのはどうしてだったでしょうか。第三番目に彼が悔い改めを拒否したからです。ダニエルを通してさばきの宣告がくだされた後、ベルシャツァルはダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけさせ、彼がこの国の第三の権力者であると布告させました(29)。ダニエルはそれらの贈り物の受け取りを拒んでいたのに(17)、王はそれらを無理やりダニエルに取らせたことがわかります。
 そんなことをしている場合ではありませんでした。彼に求められたこと、それはすぐに悔い改めることです。神の前に自らを低くして、神のあわれみを乞うことです。しかし、彼はさばきの宣告がなされた後も、悔い改めることはありませんでした。ネブカドネツァルはさばきの後で悔い改めて神を賛美したのですが、ベルシャツァルが真の神を賛美することはありませんでした。最後まで真の神の前に立つことができず、この世の価値観から抜け出すことができなかったのです。
 その夜、ベルシャツァルは殺され、帝国は滅ぼされました。代わりにメディア人ダレイオスがその国を引き継いだのです。

【4】 むすび
 本日は大学の共通テストの日。受験生たちが試験にパスして志望の大学に入学するために、一生懸命励んでいます。仮に受験に合格できたとしても、神の前のテストに落第することがないように気を付けてもらいたいと思います。
 神の秤で量られた時、私たちは果たして神の規準を達し得る者なのでしょうか。目方が足りないどころか、私たちの様々な罪あやまちが明らかさにされてしまうでしょう。私たちは、どんなにがんばっても神の規準を満たすことができません。
 そんな私たちのために救い主が十字架にかかって死んでくださいました。この方を信じることによってのみ、私たちは値なしに義と認められるのです。