2024年8月4日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約 李相扶 兄
今日の箇所では、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」というイエス様の命令が書かれていて、主が喜ぶ健全で健康的な教会について教えています。イエス様が教えてくださった「弟子とする」事について一緒に考えたいと思います。それは、私たちが目指すべき教会に繋がっていくからです。
1 教会は人です。
教会とは、ギリシャ語でエクレシア(ἐκκλησίᾳ)です。エクレシアという単語は集まり、会衆を表しています。使徒の働き7章には、ステパノが殉教する前に、人々に説教した内容が記されています。そこには、異なる時代において神が臨在した場所が説明されています。
特に7章38節には「荒野でのエクレシア」と表現があります。これは、荒野での集会、荒野での教会と訳すことができます。荒野では常に移動しながら生活をしていたため、建物は存在しなかったはずです。この文脈から分かるのは、教会は建物ではなく、イエス・キリストを信じる人々の集まりだということです。
教会は人です。人が健康であれば、聖園教会全体が健康です。人の成長が教会の成長につながっています。
「人々を弟子としなさい」というこの命令は、教会の営みに深く関わっています。
2 弱い弟子たちの姿
弟子たちはイエス様が指示された山に登り、イエスに会って礼拝しました。しかし、疑う者もいたのです。信じてきたはずの彼らでさえ、イエス様の復活を完全に受け入れることにはできませんでした。弟子たちは復活されたイエス様を直接目で見たにもかかわらず疑ったのです。完全ではない、弟子たちの姿です。
3 「弟子」とはイエス様を信じる人です。
イエス様は「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命令しました。「あらゆる国の人々」とは、ユダヤ人を含む異邦人、すべての人々を指します。特に、まだキリストを信じていない人々を対象としています。信じていないすべての国の人々を弟子とすることです。だれでもキリストを信じる者は弟子になり得るという意味です。使徒の働きをみると、弟子たちは「キリスト者、また、信者」と呼ばれていました。そのあと、新約聖書のいろんな書簡には「弟子」という単語は使われなくなります。代わりに、キリストを信じている人々が弟子を指していました。つまり、「弟子」とはキリストを信じる人です。私たちはイエス様の弟子です。弟子たちに与えられた大宣教命令は、信者である私たちにも与えられている言葉です。
4 「イエスの弟子とする」二つの方法
・バプテスマを受けるように導くことです。バプテスマは、罪を告白し、罪が赦され、神の子とされることを意味します。つまり、バプテスマが授けられた人がイエスの弟子となります。私たちは罪人でありましたが、イエス様を信じて罪が赦され、救われたのです。
・イエス様が命じたことを守るように人に教えることです。それは、人の思いや考え、今までのやり方や慣れ親しんだ生き方ではなく、イエス様の教えてくださった内容です。言い換えれば、聖書のみを教えることです。教えで終わることなく、すべてのことを守るように教え続けることが重要です。
信仰の成長には時間がかかります。忍耐も努力も必要です。バプテスマを授けた人にも教える必要があります。すべてを守るように教えるためには、私たちが聖書の教えを守っているかどうかが問われています。自分を吟味しながら、すべてを守るように人を教えなければなりません。
5 むすび
「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」(ルカ6:40)
弟子は、訓練を受ければ、イエスのようになります。
私たちはまず、イエス様の弟子になり、他の人がイエスに聞き従うように教え続ける事、これが真の弟子訓練です。私からイエスの弟子になり、周りの人々をイエスの弟子とすること、これが健全で健康な教会になっていく道です。
私たちは、野ゆり会、いとすぎ会、ますらお会、ユース、ファミリーライフ、編み物タイム、紙芝居の会など、さまざまな働きを行っています。さまざまな働きを通して多くの方が福音に触れ、イエス様に出会い、救われる事を願っております。私たちの救霊の祈りが聞かれますように切に願います。絶えず地域に福音を宣べ伝え、神の愛を伝える者になるために励もうではありませんか。
疑っていた弟子たちのように、私たちも信仰が弱く、感情に流されやすい面があります。環境や状況はなかなか変わらず、苦しい時もあります。辛い時が続いたとしても、確かに主は終わりまで私たちと共にいてくださると約束しました。共にいることは、イエス様が責任を持って導いて下さり、働いてくださることです。イエス様の弟子になることは聖霊の導きと神の恵みを体験することでしょう。「弟子とする」というこの働きを一緒にしませんか?弟子とする働きは、神の御心です。