2024年8月11日 飯能キリスト聖園教会 主日礼拝説教要約(若井和生師)
【1】 信仰によって義と認められる
今日は「救い」について、聖書から学びたいと思います。
主イエス・キリストの身代わりの死ゆえに、主を信じる者はみな、その信仰により義と認められ、罪を赦され、その支配から解放されて、永遠のいのちを持つ者とされる。この救いはただ神の恵みによる。(飯能キリスト聖園教会・信仰告白第七項)
聖書では、私たちのために十字架に架かり死んでくださったイエス・キリストを信じる者はみな、その信仰によって義と認められる、と教えられています。この聖書の教理は「信仰義認」と呼ばれています。
私たちの良いふるまいや行いや努力によって、私たちは義と認められ神に受け入れられるのではありません。ただ信仰によって義と認められます。しかも私たちがまだ罪人なのに、神は私たちを義と「認めて」くださるのです。
パウロはこの信仰義認についてローマ人への手紙3章21節から教えてきました。そして今日の箇所においては信仰義認によってもたらされる祝福について教えています。信じる者には三つの祝福がもたらされることがわかります。
【2】 神との平和
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています(1)。
第一の祝福、それは神との平和です。神との平和とは、心が平安で満たされているということではありません。それは神の怒り、律法の呪い、神のさばきに合うことがなく神に完全に受け入れられている客観的な状態を表しています。
この神との平和を私たちが本当に持っているかどうかは、私たちが罪を犯した時によく表されます。神との平和をもっていない人は自分の罪人としての姿を知らされると落ち込み、自信を失い、神との関係もよそよそしくなります。「自分はクリスチャンとして全くふさわしくない」などと考えてしまい、信仰において消極的になってしまいます。そうなってしまうのは、信仰によって義とされるという救いの理解が曖昧になっているからではないでしょうか。
この神との平和を持っている人は、いついのちが絶たれる時が来ても安心です。信仰のゆえに義と認められているために、すべての罪が赦され、神に完全に受け入れられているからです。
【3】 神の恵みに導き入れられる特権
このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました(2)。
信仰義認によってもたらされる二番目の祝福、それは神の恵みに導き入れられる特権を与えられたということです。神に義と認められた私たちは神に大胆に近づくことができます。そして神の祝福にいつでもあずかることができます。しかも、そこで私たちを待っているのは神の恵みです。私たちが無条件に愛されていることを私たちはそこで、いつでも確認することができるのです。
私たちはこの恵みに導き入れられたという確信をもっているでしょうか。ただキリストによってのみ私たちはこの特権を与えられました。私たち自身の頑張りや努力によってではないのです。
【4】 神の栄光にあずかる望み
そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます(2)。
信仰義認によってもたらされる三番目の祝福、それは神の栄光にあずかる望みと、それに伴う喜びです。私たちが人生で経験する多くの喜びとは違う、信仰義認がもたらす喜びがあります。それは神の栄光にあずかる望みを喜ぶ喜びです。
神の栄光にあずかる望みとは第一にイエス・キリストの再臨の望みです。いずれ栄光の主イエス・キリストが再臨され、この世をさばかれます。私たちは苦しみから解放され、イエスとともに勝利者となり、主の栄光にあずかるのです。
第二に私たちの救いが完成する望みです。私たちの罪に汚れた心は清められ、朽ちて行く身体は栄光のからだに変えられます。不完全な私たちはその日完成に導かれ、キリストの栄光のからだに変えられるのです。
【5】 むすび
私たちは神との平和、神の恵みに近づくことのできる特権、神の栄光にあずかる望みを持っているでしょうか。その恵みに生かされ喜んでいるでしょうか。信じるだけで義と認められる神のその大きな恵みに立ち続けましょう。