神のかたちとしての人間            創世記1章26~28節

2024年7月7日 飯能キリスト聖園教会 主日礼拝説教要約(若井和生師)

 私たちは時々「人間らしく生きる」ということばを聞いたり、自分でも言ったりしますが、そもそも「人間らしい」とはどのようなことでしょうか。本来の人間らしさは、実は聖書に示されています。聖書が教える人間の姿を、聖園教会の信仰告白のことばで確認しましょう。

神は人を神のかたちに創造された。最初の人アダムは神との正しい関係にあったが、サタンの誘惑により神のみこころに背いて罪を犯し、堕落した。すべての人はアダムにあって罪を犯したので、生まれながら罪の性質を持っており、神の御怒りのもとにある。

【1】 神のかたちとして、神の似姿に造られた人間
 今日の聖書の箇所には天地創造の六日目の様子が記されています。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」

 神は人を造られる時に「さあ」と語られました。今までになかったことです。神が人を喜びをもって造られたこと、それゆえに人は神にとって特別な存在だったことがわかります。
 そして神は人を神のかたちとして、神に似た存在として造られました。私たちのどこに「神のかたち」があるのでしょうか。私たちのどの辺が神に似ているのでしょうか。多くの聖書学者たちが様々な議論をしてきました。一つ確かなこと、それは私たちの存在の中に、神によって備えられた特別なものがある、ということです。

【2】 人間の尊さ
 神とはどのような存在でしょうか。言うまでもないことですが、第一に神とは特別な存在です。他とは比較することができないくらい尊厳のある尊い存在です。私たちが「神のかたち」として造られたとは、私たち人間も特別な存在として、神のように価値ある尊い存在として造られた、ということなのです。
 私たちは蚊やゴキブリは平気で殺すのに、人は殺しません。殺してはいけません。同じいのちなのにどうして人のいのちを粗末に扱ってはならないのでしょうか。創世記9章6節では「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである」と教えられています。人を殺してはなりません。なぜなら人は神のかたちとして造られた尊い存在だからです。
 私たちが神のかたちとして造られたとは、私たちの中に神の刻印が捺されている、ということです。つまり、私たち一人ひとりは神の所有です。神のものを勝手に傷つけたり、粗末に扱ったりしてはいけないのです。

【3】 交わりに生きる
 神のもう一つの特徴はことばを語られる、ということ。神が人を造られた時に喜ばれたのは、神が人との交わりを求められたからです。しかも神はご自身のことを「われわれ」と呼んでいます。神ご自身の中に交わりが存在していること、ここに三位一体の神が表されていますが、私たちの神は交わりの神であることがわかります。
 同様に私たち人間も交わりを必要とする存在です。私たちが神と向き合い、神と交わり、神のみこころに従っている時、私たちは一番人間らしく生きることができるのです。
 さらに神は神のかたちとして人を創造し、男と女を創造されました(27)。人が一人で生きていくのではなく互いに交わり、支え合い、助け合う存在として造られたのです。そして神は人を祝福し、被造物を管理する大切なつとめを彼らに与えました。

【4】 人間らしさの喪失
 ところがその後アダムが罪を犯し堕落した結果、すべての人がアダムのゆえに罪人となりました。すべての人は生まれながらに罪の性質を持っています。それゆえに私たちの神のかたちは歪められ、本来の姿を損なってしまいました。正しく神も人も愛することができず、この世界をも正しく管理することができなくなりました。自己愛が支配するこの世にあって正しい関係性が崩壊し、差別と抑圧と搾取により、多くの人々が傷ついています。
 しかしその私たちのために神はイエス・キリストを送り、私たちの罪を赦し、失われた関係を回復させてくださいました。そして御霊によって私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく恵みに生かされています(Ⅱコリント3:18)。

【5】 むすび
 私たちにとって救いとはたましいが天国に行くことだけではありません。この地上において私たちの歪められた人間性が少しずつ回復し、やがて完成に至ります。神の救いのみわざは今も私たちの中で、力強く働いているのです。神のかたとして造られた人間として、主にあって人間らしく生きていきましょう。