何を見ているのか   列王記第二 6章15~19節

2024年7月28日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約 山村英夫師

私たちは毎日、自分の目の前に起こっている現実と直面しています。その場合同じ現実を見ていても、その現実だけを見るのか、あるいはその現実の背後にあって働いておられる神さまを通して現実を見るのか、では同じ現実を見ていても全く違うものに見えてくることがあります。
今朝は預言者エリシャとその召使が同じ現実を目のあたりにしたにもかかわらず、二人の目には同じ現実がまったく違ったものに見えた出来事を見ていきます。
15~19節にイスラエルがアラムと戦っていた様子が書かれています。その前の8~14節においてアラムの陣営において行なわれていた作戦会議の様子が書かれています。しかし彼らが立てた作戦はうまくいきませんでした。その一つ一つがイスラエルの陣営に筒抜けになってしまっていたからです。
そこでアラムの王は自分たちの中にイスラエルのスパイがいるのではないか犯人探しを始めました。しかしそこにスパイがいたのではありません。イスラエルに預言者エリシャという人がおり、神さまがこのエリシャを用いてアラムの作戦会議の情報をイスラエルの王に伝えていたのです。そこでアラムの王はエリシャの居所を突き止めようとしました。王のもとにエリシャがドタンという町にいるという報告がもたらされました。そこで王はエリシャを捕らえるために馬と戦車と大軍をもってドタンの町を包囲してしまいました。
一方エリシャとその召使が朝早く起きて外に出てみるとアラムの軍隊に周りを完全に取り囲まれている状態を見ることになりました。召使はその光景を見て大慌てをしてしまいました。目の前に展開しているあまりもきびしい現実を目の当たりにして思わず声を上げてしまいました。「ああ、ご主人様、どうしたらよいのでしょう」と言う悲痛な叫びです。召使にとっては目の前に展開している現実におびえ切ってしまったのは無理からぬことでした。まさに死ぬか生きるかの状況に追い込まれてしまっていたのです。
このことは私たちにとっても決して他人事ではありません。ふだん物事が順調にいっているときには私たちは落ち着いて行動することができます。ところが自分に何か思いがけないことが起こった時には私たちも同じように取り乱してしまいます。例えば自分が急に重い病気になっていることがわかったり、仕事や人間関係で突然思ってもみなかったトラブルに巻き込まれてしまった場合には私たちは慌ててしまいます。急なことでなくても悩みを抱えていたりストレスを抱えているときには不安になったり自分を失ってしまうことがあります。どんな人にも問題は起こってくるものです。
さてエリシャはこのきびしい状況の中にあってどうしたでしょうか。16節に驚くべきことが書かれています。なんとエリシャはこんなきびしい状況の中にあっても落ち着いていたのです。それはエリシャは自分の目の前で起こってる現実の出来事の背後に神さまを見ていたのです。そして召使に対して言いました。「恐れるな。私たちと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」召使にとってもエリシャにとっても目の当たりにしている現実には変わりはなかったのですが、エリシャは現実の背後に働いておられる神さまを見ていたのです。
神さまに対する絶対の信頼を持っていたエリシャは「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈りました。目の前で恐れている召使の目を開いてくださるように祈ったのです。すると、さっきまで恐れていた召使の目にエリシャを取り巻いている火の馬と戦車が見えたのです。この後、神さまはアラムの軍隊の目をくらましエリシャは彼らをサマリアへと導いていきました。そしてそこでアラムの軍隊をもてなし、アラムの軍隊を帰途に着かせることにしたのです。その後、イスラエルはアラムの軍隊の攻撃を受けることがありませんでした。