誓うことはやめなさい              ヤコブの手紙5章12節

2024年5月26日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 父なる神が報いてくださる
 最近水曜日の祈り会ではマタイの福音書6章を学びました。その中で繰り返し教えられているのは、「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」ということです。このことばから気づかされることがあります。まず、私たちの父なる神は隠れたところにおられるということ、次に隠れてはいるけれども確実に私たちを見ておられること、そして、私たちにいつの日か必ず報いてくださる、ということです。
 この世で与えられる報いを求めてしまうことの多い私たちではないでしょうか。しかし、私たちはたとえこの地上での歩みが十分に評価されなくても忍耐することができます。父なる神が私たちの歩みをよく見ておられ、それらに対して必ず報いてくださるからです。よって私たちに求められるのは父なる神の御前にあって誠実に生きることです。
 ヤコブも耐え忍ぶことの大切さについて教えてきました。試練の中に置かれ、忍耐が強いられることの多い信仰者たちにとっての励ましとは何でしょうか。それは、主が来られる時が近づいていること。神がヨブの忍耐の先に用意しておられた祝福についても私たちは学びました。主の来られる日が近づいていることが、私たち信仰者にとっての励ましなのです。
 同時にそれは神の御前で誠実な生き方がいつも求められているということです。特に私たちが口にすることばにおいても、御前での誠実さが求められています。

【2】 誓うことはやめなさい
 12節でヤコブは「誓うことはやめなさい」「誓ってはいけません」と繰り返し教え、私たちに誓うことを禁じています。同じことをイエス様もマタイの福音書5章34~37節で教えておられます。
 聖書において、誓いそのものが禁じられているわけではありません。聖書の登場人物の中でも神に誓った人、誓願を立てた人は多くいます。しかしイエス様の時代には誓いがあまりにも軽んじられている状況でした。「わたしの名によって偽って誓ってはならない」とのレビ記19章12節の教えを、当時の人々は「神の名によらなければ、偽りの誓いでなければ、いくらでも誓ってもよい」と勝手に解釈し、すぐに安易に誓ってしまう状況だったのです。
 そのような中にあってイエス様は「決して誓ってはいけません」と教えられました。神のことばを人間のことばにしてしまう当時の傾向に対して、イエス様はみことばの正しい説き明かしを示されたのでした。
 このイエス様の教えをヤコブも繰り返し教えているところを見ると、当時も同じような状況を抱えていたのかもしれません。軽々しく誓ってしまう誘惑に信仰者たちは晒されていたのだと考えられます。しかし誓うとは神の前に誓うということ、それは大変な責任を伴うことです。
 洗礼、結婚、就任の時などに私たちは誓約をします。誓約とは神の前に誓うということです。それは大変大きな責任です。誓ったことには最後まで誠実でなければなりません。逆のことを言うならば、私たちは軽々しく誓ってはならないのです。

【3】 「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」
 さらにヤコブは「あなたがたの『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』でありなさい」と命じました。これもイエス様が教えられたことの繰り返しですが、自分が口にすることばには責任を持ちなさい、そして、ことばにおいて曖昧な態度を取ることがないように、との意味の命令です。私たちの口にすることばにおいて、御前にある誠実さが求められているのです。
 ことばに関してはパウロも多くのことを教えています。「愛をもって真理を語りなさい(エペソ4の15)」「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい(エペソ4の29)」「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい(コロサイ4の6)」。
 クリスチャンとそうでない人の違いはどこに現れるでしょうか。ことばに現わされます。

【4】 むすび
 最後にヤコブは「そうすれば、さばきにあうことはありません」と語りました。これは、ことばで罪を犯す時には永遠の滅びというさばきに合ってしまう、という意味ではありません。イエス・キリストの贖いによる救いをいただいている私たちは、永遠のさばきに定められることはありません。
 しかし、それでも私たちは与えられた人生をどのように生きたのかを御前で評価される時がきます。その時に、この地上ではなく天にどれだけ宝を蓄えてきたかが問われるのです(マタイ6の19~20)。
 私たちは与えられた人生を、永遠に残るもののために生きたいと思います。この世で与えられる富や人からの評価は、その時は嬉しくてもその時だけで終わってしまいます。しかし私たちは御前で誠実に生きることによって、天に宝を蓄えることができます。そしてかの日には父なる神が私たちに豊かに報いてくださいます。私たちは、永遠に残るもののために生きようではありませんか。