高い山に登れ               イザヤ書40章9~11節

2024年12月15日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 「シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ(9)」。シオン(エルサレム)に良い知らせを伝える者に向かって、「高い山に登れ」と命じられています。どうしてでしょう。彼らが「良い知らせ」を持っているから、そして、その「良い知らせ」を人々に伝えるために、高い山は最高の場所だからです。
 それにしても「良い知らせ」とは、どのような知らせなのでしょうか。どれくらい「良い」知らせなのでしょうか。

【1】 慰め主の到来
 それは今までの箇所に記されてありました。神がイスラエルの民の慰めを願い、慰め主を送ってくださいます。その方が来ると彼らの苦役は終わり、彼らの咎は償われ、彼らの罪は赦されます。彼らのすべての罪に代えて、二倍の祝福が彼らに与えられます。
 しかも彼らのたましいの叫びにも神はちゃんと応えてくださいます。荒野のような荒廃した現実の中から発せられる人の叫びにも、草のようにしおれてしまうはかない人間の叫びにも、神はちゃんと耳を傾けて、そして応えてくださいます。人がもし叫べば、その叫びに神は必ず応えてくださる。それは何と深い、何とありがたい慰めではないでしょうか。
 
【2】 力の限り声をあげよ
 このような「良き知らせ」をゆだねられた者たちは、確かに高い山に登らなければなりません。そして彼らは「力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな」と命じられました。すべての人に知らせるために、一人も聞き漏らすことのないために大きな声で、力の限り声をあげる必要があります。神はすべての人に、この「良い知らせ」を伝えたいからです。
 神は良い知らせを伝えようとする者たちに「恐れるな」と語りかけました。彼らは何を恐れていたのでしょうか。慰め主到来の約束は彼らに与えられました。苦役は終わり、罪は赦され、二倍の祝福が与えられるという慰めは提示されました。
 しかし彼らはまだ見ていません。実際にはまだ体験していません。慰め主到来の知らせについて聞いてはいますがそれはまだ実現していません。だから不安なのです。この方が実際に来られると彼らの生活はどう変わるのでしょうか。どのような変化が彼らにもたらされるのでしょうか。
 神のことばを疑っているわけではありません。信じてはいます。それでも知らないということは不安なことです。実際に見て触って体験して知るまでは不安なのです。

【3】 見よ
 そんな彼らに命じられたこと、それは「見よ」ということです。「見よ」ということばが三回繰り返されています。彼らに求められたこと、それは聞くだけでなく、考えるだけでなく、実際に見ることです。見て確かめることです。
 何を見ればよいのでしょうか。「見よ、あなたがたの神を(9)」。まず神を見ること、神を注視することが求められました。彼らの神はどのような神なのでしょうか。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める(10)。」この神は力ある神です。力強い御腕を持っています。その御腕で敵を打ち倒し、国々を統べ治めます。勝利者なる神であり、支配者なる神です。
 同時にこの神は羊飼いのような優しい神です。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く(11)。」 敵を打ち倒したあの同じ御腕で、子羊を引き寄せ、懐に抱き、優しく導いてくれます。神はそれくらい確かに私たちのために戦い、私たちを守り、私たちを引き寄せ、御腕の中で支え導いてくださるのです。
 この神をしっかり見ること、この方の御腕の中で生きる幸いをしっかり経験すること、それが私たちにも求められているのです。

【4】 むすび~高い山は今どこに
 私たちはこの「良い知らせ」をしっかり、自分のものにしているでしょうか。その知らせの良さを、素晴らしさを、どれくらい味わっているでしょうか。それを知れば知る程、私たちは高い山に登りたくなります。そして力の限り声を上げて伝えたくなります。
 今、この「高い山」はどこにあるのでしょうか。イエス様は言われました。「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。(マタイ5:14)」 教会は「山の上の町」に譬えられています。それは隠れることができないくらい、はっきりとしっかりと人々から見えるところに立っています。その山の上にあって光をしっかりと輝かせること、それが教会に与えられたつとめです。
 私たちもしっかり高い山に登りましょう。そして全世界に向かって呼びかけましょう。力の限り声を上げて伝えましょう。「救い主はお生まれになりました! この方は皆さんを愛しています! 皆さんを救うために来られました!」と、はっきりとしっかりと伝えようではありませんか。