たとえそうでなくても              ダニエル書3章1~8節

2024年10月27日 飯能キリスト聖園教会 主日礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 ネブカドネツァル王の高ぶり
 2章でダニエルに夢の解き明かしをしてもらったネブカドネツァル王は、3章では金の像を造りました。それは高さが約27メートル、幅が2.7メートルにもなる巨大な像だったことがわかります。
 聖書では「ネブカドネツァル王が建てた像」ということばが繰り返し使われていて(2、3、5、7)、この像が王自身によって造られたことが強調されていることがわかります。彼は自分でも「私が建てた像(14)」「私が造った像(15)」との言い方をしていますが、それが王としての自分の力を誇示するために造られた像であることがわかります。
 その像の奉献式にバビロン中から高官たちや役人たちを呼び寄せました。「太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官…」。これらの役職名が具体的に記されていることによって、ネブカドネツァルがいかにしっかりとした社会を築き上げたかを私たちは知ることができます。王はその強固な社会の上に君臨する最高権力者でした。集められたすべての役人たちに、この金の像を通して自らの絶大な権力を示すことが、王の目的だったのです。
 しかも王はこの金の像に対する拝礼を命じました。そこに集められた人々だけでなく、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてに呼びかけて、その像を拝むことを命じました。王が宗教を利用して自らの権威づけを行っていること、人々の素朴な宗教心を利用して自らを神格化し、自らへの服従を要求していることがわかります。
 ネブカドネツァルは2章で回心したのではなかったでしょうか。ダニエルに夢の解き明かしをしてもらった後、王は「あなたがたの神こそ、神々の中の神、王たちの主」と告白しました(2:47)。ダニエルの信じる神こそは真の神である、との信仰告白へと一度は導かれたはずです。
 しかし、あれから20年近くの時間が経過したと言われています。その間にその時与えられた真の神への信仰心は薄れてしまいました。同時のこの20年は王の支配がますます広がり、ますます強められた20年でした。この時にネブカドネツァルは権力の絶頂を迎えていました。同時にそれは高ぶりの絶頂でもあったのです。
 神に対する恐れを失う時に私たちがすぐに高ぶるのは、あのバベルの塔(創世記11)の時以来の傾向です。私たちは「われわれの名を上げる」ために必死に努力し、自分自身を誇りたいのです。しかし神は高ぶる者に敵対し、へりくだった者には恵みを与えられます(ヤコブ4:6)。私たちに求められるのは神の前にあるへりくだりなのです。
 
【2】 たとえそうでなくても
 このような偶像礼拝を命じる命令が出た後、この命令に従わない三人がいました。ダニエルの仲間たちのシャデラク、メシャク、アベデ・ネコです。三人は早速王の前に連れて来られました。そして王の造った金の像を拝むようにと改めて命じられ、もし背いたら火の燃える炉の中に投げ込まれる、と脅されました。
 その王の脅しに対して三人は答えました。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します(16~17)。」
 実に堂々とした威厳のある態度で真の神について告白していることがわかります。三人は神の力について告白しました。神が火の燃える炉から、そして王の手からでも自分たちを救い出すことができること、神はその力をもっている、と告白しました。彼らが神に完全に信頼していることがわかります。彼らの威厳ある態度は、彼らの神に対する信頼から生まれてきました。
 さらに注目すべきはその次の彼らのことばです。「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません(18)。」 仮に神が火の中から彼らを救い出してくださらなかったとしても、自分たちは王の神々には仕えず、真の神に仕えると告白しました。神には神のご計画があり、その神の主権に対する従順がここで告白されていることがわかります。
 彼らの信仰はご利益信仰ではありませんでした。イエス様がゲッセマネの園で「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに」と祈ったように、みこころを第一とする信仰だったのです。

【3】 むすび
 私たちの信仰の中身が問われるのは実は試練の時、苦難の時です。信仰とは神によって私たちが利益を得ることではありません。神の教えやルールを機械的に守ることでもありません。神に信頼することです。神に心から仕えることです。そして私の計画が実現することではなく、私を通して神の計画が実現することを願い求めることです。
 キリストは私たちにとって王の王、主の主、この世の権力の上に君臨される偉大な支配者です。この方のみこころがなるように、私たちは祈り求めていこうではありませんか。