2026年1月11日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)
「主よ あなたはあなたのなさったことで私を喜ばせてくださいました(4)。」 クリスチャンに見られる最大の特徴、それは喜びです。主が主のなさったことによって私たちを喜ばせてくださいます。それは、主が与えてくださる喜びです。
しかし現実に私たちはいつも喜んでいるわけではありません。信仰者であっても喜びを失ってしまいます。どうしてでしょうか。
【1】 神のみわざの大きさが見えなくなるから
詩篇の著者は「主よ あなたのみわざはなんと大きいことでしょう」と言いました。神のみわざの大きさを知っていることが、彼の喜びの理由であることがわかります。つまり、その大きさが見えなくなると喜びが失われてしまう、ということです。
なぜ神のみわざの大きさが見えなくなってしまうのでしょうか。自分の力に頼っているからです。そして神に信頼しないからです。それゆえに神のみわざの大きさを体験できなくなってしまうのです。
聖書は「あなたがたは信仰によって救われたのです(エペソ2:8)」と教えます。救いを得るための唯一の手段は信仰である、ということです。それは自分の無力さを知っている人だけが経験できる恵みです。
私たちの内にはいつでも、自分を誇りたい願望が潜んでいます。自分の力を誇りたいのです。ぜひ私たちは、心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼ることがありませんように(箴言3:5)。
【2】 神の御思いの深さがわからなくなるから
次に詩篇の著者は「あなたの御思いはあまりにも深いのです」と告白しました。神様の御思いの深さを知っていることが、彼の喜びのもう一つの理由であることがわかります。つまり、この神様の御思いの深さがわからなくなると、喜びが失われてしまうということです。
私たちは今まで、神の「御思い」を意識したことがどれだけあったでしょうか。ほとんど意識することがないのではないでしょうか。神様の御思いを考えることがないくらい、自分の思いで心がいっぱいにいなっているのではないでしょうか。
私たちは時々神様の「みこころ」を意識することはあるかもしれません。しかし、そのもっと奥にある神様の「御思い」を覚えることがあまりにも少ないのではないでしょうか。自分の思いと計画の中で神様の「みこころ」を考えることはあっても、それを超えたところにある神様の「御思い」を覚えることはあまりないのではないか、と思わされます。
預言者イザヤはこう言いました。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ(イザヤ55:8)。」 神様の思いは私たちの思いと異なります。でも、それが実は私たちにとっての最善の思いです。
立ち止まって神様の御思いを思い巡らしたり、確認したりする時間と取り組みが、私たちにはもっともっと必要なのではないでしょうか。神様の御思いの深さをぜひ教えていただきましょう。
【3】 世の中の事がらに心を奪われるから
私たちが喜びを失ってしまうもう一つの理由があります。それは、私たちが世の中の事がらに心を奪われてしまうからです。「悪い者が青草のように萌え出で、不法を行う者がみな花を咲かせても…(7)」 悪い者が栄えたり繁栄したりすることがあります。不法を行う者が成功したり活躍したりすることもあります。
そのような姿を見ると私たちもすぐに影響されます。この世の流れに流されて、神様に頼らなくても得ることのできるこの世の喜びを求めてしまうのです。
しかし彼らが栄えるのは何のためでしょうか。それは「彼らが永久に滅ぼされるため」です(7)。悪い者、不法を行う者たちはみな滅ぼされ、散らされてしまうのです(9)。
【4】 いと高き方から目を離さない
私たちが覚えておかなければならないことが、もう一つあります。それは私たちの神様は永遠にいと高き所におられる、ということです。詩篇の著者は神様のことを「いと高き方」と呼びました(1)。
私たちの神様はいと高き所に永遠におられる、いと高き方です。私たちが目をあげるならば必ずそこにおられる、ということです。私たちの課題はこの方に目を上げないで下ばかり、この世の中のことばかり、そして自分のことばかり見ている、という点にあります。それゆえに私たちはすぐに喜びを見失ってしまうのです。私たちは神様が与えてくださる喜びを、決して奪われてはいけません。
願わくは私たちが自分の力に頼って自分を誇ることがありませんように。自分の思いでいっぱいになってしまうことがありませんように。この世に惑わされ流されてしまうことがありませんように。そして永遠にいと高き所におられるいと高き方をしっかりと見つめながら、歩んでまいりましょう。