明日のことはわかりません         ヤコブの手紙4章13~17節

2024年4月14日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 よく聞きなさい
 13節の直前の12節でヤコブは「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」と信仰者たちに問いかけました。これは「あなたがたは隣人をさばいたりして、自分たちが何者であるのかわかっているのですか。あなたがたは人をさばくことによって律法をさばき、律法を定められた神をさばいているのです。つまり、あなたは神になっているのです」との意味です。無意識的に神のように振舞ってしまう私たちの高ぶりが、ここでは指摘されています。
 そんな私たちの高ぶりは、どのようなかたちで具体的に表されるのでしょうか。自分の未来を自分でコントロールしようとする私たちの姿に、現わされます。
 ヤコブの手紙の読者たちの中には、商売をしてもうけようと考えている人々もいました。そのために今日か明日には動きだし、商売が繁盛しそうな町に行き、そこで一年間は滞在して、ビジネスにおいて何とか勝機を得ようとしていたのです。
 しかし、そんな彼らに向かってヤコブは命じました。「よく聞きなさい」。これは「今、よく聞きなさい」という意味の命令です。彼らは今日か明日か、とにかく今すぐに動き始めようとしていました。聞く余裕もないままに動き始めようとしていました。そんな彼らにその時求められていたのは、よく聞くことだったのです。
 私たちはどうでしょう。何かことを始める前に、よく聞いているでしょうか。私たちの未来を自分で操作しようとする前に、みことばに耳をよく傾けたいと思います。
 
【2】 よく聞くべきこと
 それではよく聞くべきこととは何でしょうか。ヤコブは第一に「あなたがたには、明日のことは分かりません」と言いました。明日は不確かな未来です。明日に何が起きるのか、どのような日になるのか、実は誰も知りません。
 さらにヤコブは「あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧のようです」と続けました。私たちのいのちは、太陽の光が差せば消えてなくなってしまう朝の霧のようです。一時的に現れても、すぐになくなってしまいます。何とむなしいことでしょうか。しかし、それが私たちが高ぶりから守られ、謙虚に生きるために知っておくべき最初のことなのです。
 次にヤコブは語りました。「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」 私たちの人間の営みの中に、主のみこころが存在していることがわかります。
 みこころのままに生きた代表人物はパウロです。「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻ってきます」と、滞在したエペソの町の人々に告げました(使徒の働き18の21)。再び戻って来れるか、また再会できるかは神のみこころ次第です。パウロは、自らの未来を神に委ねていることがわかります。
 神に未来を委ねるとは未来に対して私たちは無計画であっていい、という意味ではありません。私たちは未来に向けて迅速で具体的で実際的な準備を進めていく必要があります。しかし私たちの未来を支配しているのは神ご自身です。
 私たちが今、この地上に存在していること自体が神のみこころです。私たちはみこころのままに生かされているのです。そして、そんな私たちに神が願っておられることがあります。神のみこころをよく理解してそれを行う時、神は私たちを喜んでくださるのです。

【3】 的外れにならないために
 ヤコブの手紙の読者たちは、実際的にはやはり誇り高ぶっていました。大言壮語して彼ら自身の高ぶりが彼らの生き方やことばに見えるくらい、彼らは自分自身を誇っていたのです(16)。
 しかしヤコブは今日の箇所の結論として教えました。なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です(17)。」 ここで「罪」と訳されていることばは「的外れ」という意味のことばです。神が彼らにさせたいと願っているみこころに対して彼らは無頓着で、実際には彼ら自身が願っている別のことをしてしまったのです。その意味で彼らは的外れだったのです。

【4】 むすび
 私たちは果たして的外れになっていないでしょうか。礼拝において、奉仕において、そして私たちの信仰生活において、的が外れた状態になっていないでしょうか。主が喜ぶことではなく、自分自身の喜ぶことだけが私たちの関心事となっていないでしょうか。
 そもそも神は私たちの生活のどこにおられるでしょう。私たちの生活の中心におられるでしょうか。それとも、端っこの方に追いやられていないでしょうか。私たちが高ぶりから守られ謙虚に歩むために、主なる神を中心とした生活の再建が欠かせません。
 ぜひよく聞いて、そしてなすべき良いこと、主のみこころをさせていただこうではありませんか。私たちの歩みを通して、ぜひ主に喜んでいただきましょう。