嘆きなさい 悲しみなさい 泣きなさい          ヤコブの手紙4章7~10節

2024年3月24日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 ですから
 今日の箇所は「ですから」ということばから始まり、前の箇所の続きであることがわかります。ヤコブは1~6節にて、信仰者の克服すべき課題として「欲望」と「世」を指摘しました。それらの課題を意識しつつ、神との関係を整えることの大切さが、ここで教えられていることがわかります。
 多くの命令が語られていきますが、最後の命令は「主の御前にへりくだりなさい」です。ヤコブは5節にて、「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」と教えました。神の恵みに生かされるために必要なものは「へりくだり」であることを指摘しました。この「へりくだり」に至るまでのステップが、ここで教えられています。
 私たちにとってへりくだること程、難しいことはありません。私たちの肉の性質はいつでも高ぶることを願っているからです。神の助けが必要なのです。

【2】 神に従い、悪魔に対抗しなさい
 第一の命令は「神に従いなさい」です。神にも仕え、この世にも仕えているような曖昧な私たちに必要なのは、神に従うということ。神への忠誠心を明確にすること。ここからすべてが始まります。
 そのために私たちは悪魔に対抗しなければなりません。悪魔から逃げるのではなく、悪魔に対抗するのです。そうすれば悪魔は私たちから逃げるのです。
 イエス様も荒野で悪魔の試みに合われ、しかし、みことばによってしっかりと対抗したために悪魔はイエス様の下から去っていきました(マタイ4の11)。悪魔は自分の力により頼ませ、そのためにみことばさえ利用することがあります。そして最終的には自分自身への礼拝を強要します。悪魔は神と人との関係を引き裂き、人を高ぶらせます。私たちは神への忠誠心を曖昧にせず、みことばによってしっかりと武装して悪魔に立ち向かう必要があるのです。

【3】 神に近づきなさい
 次にヤコブは「神に近づきなさい」と命じました。神に近づいてもらう前に、まず私たちが神に近づくことが求められています。
 なぜ私たちは神に近づこうとしないのでしょうか。近づくことで自分の生身の姿が見えてきてしまうからでしょう。それゆえに私たちは神を信じつつも、神との程よい距離をキープしようとします。それは神を愛しつつ、この世も愛せるくらいの距離です。その矛盾があまり問われないくらいの位置です。
 そのような人をヤコブは「罪人たち」「二心の者たち」と呼びました。神を愛しているようで、しっかり罪を犯し続け、神を愛するその一方で、世をもしっかり愛しているからです。そのような人々に向かってヤコブは手を清め、心を清めなさいと命じました。
 神とこの世、それら二つの間で揺れ動く私たち。その中にあって私たちの行いと心の両方が清められなければなりません。神はキリストによって神に近づく人々を完全に救うことができるのです(へブル7の25)。

【4】 嘆きなさい、悲しみなさい、泣きなさい
 そしてヤコブは「嘆きなさい、悲しみなさい、泣きなさい」と命じました。驚きの命令ではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい」とのみことばと矛盾するのではないでしょうか。しかし、これは罪人としての自分を嘆きなさい、自分の罪を悲しみ、そのために泣きなさい、という意味の命令です。
 私たちにとっての一つの課題は、いつも表面的な喜びや、はかないこの世の楽しみばかりを求めてしまうところにあります。聖書が私たちに提示している「喜び」を私たちは実は求めていないことが多いのです。それは神のさばきを無視した喜びであり、自分の罪に無頓着な喜びです。そのような極めて表面的な喜びが、教会の交わりさえ支配してしまうことがあるのです。
 私たちに必要なのは「神のみこころにかなった悲しみ」。その悲しみは後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます(Ⅱコリント7の10)。私たちはそのような悲しみを、どれだけ味わっているのでしょうか。

【5】 主の前にへりくだりなさい
 これら一連の主の導きと助けとがあって、私たちは初めてへりくだることができます。ヤコブは最後に「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く引き上げてくださいます」と教えました。これは主の御前でのへりくだりであり、人の前でのへりくだりではありません。人の前でのへりくだりは、私たちの心の中に高ぶりを隠し持った表面的なへりくだりです。しかも私たちは自分の力でへりくだることができません。
 神の助けとご介入があって、私たちは初めて真のへりくだりを学ぶことができます。神に近づき、罪人としての自分を知らされ、その自分を悲しんだ者だけが神の恵みを知ることができます。私たちに求められるのは取税人のような「神様、罪人の私をあわれんでください」との祈りです(ルカ18の13)。そのようなへりくだった者を、神は恵みの御手をもって高く引き上げてくださるのです。
 私たちは神に従い、御手の中で謙遜を学び、主の御手によって引き上げられる恵みを、是非味合わせていただこうではありませんか。