あなたがたの信仰のとおりになれ     マタイの福音書9章27~31節

2022年1月23日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 今年になって私たちは毎週のように信仰について教えられています。12年間、長血をわずらった女の人も、会堂司ヤイロも、私たちの注目に値する素晴らしい信仰の持ち主でした。今日私たちは、イエス様の下に近づいた二人の盲人たちの信仰に注目したいと思います。
 今、私たちは信仰を試されているのではないでしょうか。昨年末には収まりかけてきたように見えたコロナの感染拡大が、今年になって、今までにない勢いで拡大しています。多くの不安や制約を覚える中で、私たちは一体誰に信頼しているのか、自分自身かイエス様か、私たちの信仰が探られているのではないかと思います。

【1】 二人の盲人たちの信仰
 その日、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながら、イエス様についてきました。
 この二人には注目すべき点がありました。彼らがイエス様のことを「ダビデの子よ」と呼びかけた点です。「ダビデの子」という称号は当時のユダヤ社会の中にあって、非常に重要な称号でした。この「ダビデの子」が、旧約聖書で約束されているところのメシヤ・救い主を表す称号だったからです。
 預言者イザヤは、ダビデの子孫よりイスラエルを救う救い主が生まれることを預言しました。それ以来、イスラエルの人々は預言された救い主の到来を待ち望んできました。「ダビデの子」とは、そんな救い主を表すことばだったのです。つまり、この二人の盲人たちは「旧約聖書にて預言されている私たちがずっと待ち望んできた救い主であるイエス様!」と、イエス様に呼びかけていたのです。
 この二人はイエス様がどのような人物かを的確に理解していた、ということです。自分たちは聖書を知っていると自認していたパリサイ人や律法学者たちなど当時のユダヤ教の指導者たちは、イエス様を救い主と認識することができませんでした。しかし、この二人の盲人はイエス様を救い主として正確に理解していました。見えているはずの人が実は見えていなく、盲人なのに見えているという逆接がここで、指摘されているのです。
 私たちにとってイエス様とはどのような人物でしょうか。イエス様は単なる歴史上の偉大な宗教家ではありません。旧約聖書にて預言されているところの真の救い主です。聖書の中心だけではなく、世界の歴史の中心におられる方です。イエス・キリストに対する的確な理解をもたせていただきたいと思います。

【2】 信仰を引き出されるイエス
 この二人の盲人はイエス様が家に入られるまで、叫びながらイエス様についてきました。つまりイエス様はこの二人の求めに、すぐには対応されなかったということです。人目を避けるため、さらに、彼らの信仰を引き出すため、という二つの理由が考えられます。
 家に到着するなりイエス様は二人に問いかけました。「わたしにそれができると信じるのか(28)。」 二人にとって大事だったことはイエス様からあわれみを受けることでした。目が見えるようになることなのか、食べ物やお金を恵んでもらうことなのか、イエス様に目を留めていただくことだったのか、そのあわれみの具体的な内容に関しては定かではありません。ただ、とにかくイエス様から与えられる祝福を彼らは求めていました。
 しかしイエス様にとって、もっと大事なことがありました。それは彼らがイエス様を信じることです。イエス様にそれができると彼らが信じるかどうか。つまり彼らの内にイエス様に対する信仰があるかどうかがもっと大事だったのです。
 彼らは「はい、主よ」と答えました。イエス様にそのように問いかけられて、彼らは改めてただ求めるだけでなく、信仰が必要なことを悟ったのではなかったでしょうか。長血の女の人と会堂司ヤイロは、イエス様に対する明確な信仰をもっていました。同様の信仰をイエス様は彼らに求められたのです。そのようなイエス様の導きの中で、二人の信仰が引き出されているのを私たちは感じます。
 イエス様は彼らの目にさわり、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と語り、彼らの目を癒してくださいました。彼らの信仰に応えるかたちでみわざをなされました。同じように私たちにも信仰が求められています。
 私たちは、神さまに対する期待はあるのに実は信じていない、ということはないでしょうか。求めはあるのに、イエス様の力に信頼していないということはないでしょうか。ただ漠然と祈るのではなく信じて祈ろうではありませんか。そのような信仰の祈りに主は必ず応えて下さることを、私たちは信じたいと思います。

【3】 何が見えているのか
 この時、二人の盲人は二重の意味で目開かれました。まずは文字通り目が見えるようになりました。でも同時に人生で一番大事なものが見えるようになりました。イエス・キリストがはっきりと見えるようになりました。イエス・キリストに信頼していく幸いな人生に導かれました。
 私たちは果たして本当に見えているでしょうか。イエス様ご自身がよく見えているでしょうか。見えていれば私たちは信頼することができます。私たちの目が開かれて、イエス様の力強さと愛の豊かさを見させていただきましょう。この方に信頼していこうではありませんか。