イザヤ書9章

イザヤ09              光の訪れ



預言者イザヤは、光が見えないことに不安や苛立ちを感じ、嘆きの声を上げたことがある(5:30)前章も「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者」(8:22)と結ばた。いつ果てるとも知れない不信仰と絶望の中に置かれ、使命を投げ出すことも出来ない。

しかし、9章に入ると、預言者を取り巻く状況は変わらないが、彼の語るメッセージは一変する。預言者の心眼は研ぎ澄まされ、霊的洞察は深められ、未だ誰の心にも思い浮かんだことのない領域が見えてくる。メシヤの姿である。それは、雲間から差し込む一条の光として訪れ、たちまち旭日の輝きとなって迫って来る。メサイヤの中でハレルヤ・コーラスを聞く思いがする。

Ⅰ光を見る(1-5)

「苦しみのあった所に、やみがなくなる」

これまで、どちらを見ても、漆黒の闇に覆われているように見えた。しかし、今、預言者は雲間に光を見るように、闇が途切れるのを見た。それは、具体的な希望の形をとって現れた。

「ゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」

ゼブルンとナフタリは、イスラエル北辺の地である。そこは、北方の敵が侵入して来ると、真っ先に蹂躙された。彼らは歴史を通じて、虐殺、陵辱、略奪、恥辱のきわみを経験した(台風が、沖縄・九州・四国を真っ先に襲うように)

この地を総称して「異邦人のガリラヤ」と呼ぶ。それは、イスラエルでありながら、異邦人によって支配されていることが多かったからである。

預言者は「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」と預言する。これは、闇の支配からの解放宣言と言える。この世では、闇に光が訪れるのは、最後の最後である。しかし、神の光は、最も暗黒の深いところから輝き始める。後の者が先になるのである(マタイ20:16)

イエス様は、荒野で試みられた後、一度ガリラヤに退かれたが、それは逃げたのではない。福音宣教を、ガリラヤから始めるために戻られたのである(マタイ4:12-16)

マタイはそれを、預言者イザヤの成就だと理解した。イエス様がガリラヤを本拠地とし、復活後もガリラヤを名指したのは、真に興味深い(マタイ26:32、28:7、10)

このように、神の慈悲は、虐げられている人々を忘れることがない(出エジプト2:24)それ故、神の恵みに与かる者は、己の卑しかったことを記憶せよ(イザヤ51:1、詩篇136:23)

「彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ」この言葉は、光の到来によってもたらされる最初の歓喜表現のようであるが、実は、結論的な祝福を物語っている。

略奪に次ぐ略奪、長く収穫の喜びさえも忘れていた者たちに(士師6:3-4)刈り入れの喜び、さらには、分捕られていた者の立場が逆転して、分捕りものを楽しむ時が来ると語る。

果たして、そんな夢のような事を期待出来るのだろうか。妄想ではないのか。

4、5、6節の冒頭に、ヘブル語聖書では「キィー」と言う接続詞が繰り返されている。これが手がかりとなる。「キィー」とは「何故ならば」と訳せる接続詞である(時には翻訳不要でもあるが)ですから、この部分では、4節が3節を説明し、5節が4節を説明し、6節が5節を説明する。これは見逃せない。預言者の気持ちが高揚していく様子がわかる。

3節の祝福は、4節の主による介入の結果であり、主の介入は、5節の武器放棄による。そのようなことは、絵空事のようであるが、6節のメシヤ誕生によって可能となる。実に、交響楽ならば、壮大なクレッシェンドと言えるのではないか。

Ⅱ光の延長に、メシヤを見る(6-7)

「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる」

ひとりのみどり子、ひとりの男の子、主権者。これもまた、見ごとなクレッシェンドではないか。私たちの為に生まれ、私たちに与えられる。一語ごとに、真理が明らかにされ、意味は深められる。

「その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」

英訳聖書には、不思議と助言者を分離するものがある(エジプトの王の呼称は五つだと言われる)文語訳聖書も分離した。しかし、名詞と形容詞の調和が自然ではないか。

「不思議な助言者(ペレ・ヨーエイツ)」真先にペレ(不思議)という言葉が登場するのは、名状しがたい預言者の感動を言い表している(士師記13:18も、素朴な感動を表わす)無限の神を的確に表現する言葉はない。不思議と言う単純で再現のない言葉こそ最善な表現かもしれない。

助言者の役割が重要であることは周知である(Ⅱサムエル16:23のアヒトペル)聖霊も助け主。

「力ある神(エル・ギボール)」王の即位式の歌と理解し、神の戦士と訳す者もある。ユダが周囲の敵を恐れている時、力の神が待ち望まれた。

「永遠の父(アビィ・アド)」(63:15-16)永遠と言う言葉は、創造者である神にだけ相応しい言葉である。天地は過ぎ去り、万物が流転する中で、神のみ永遠である(ヘブル13:8)

「平和の君(サル・シャローム)」争いは誰でも始められるが、平和を作り出すのは至難である。実に、キリストは私たちの平和です(エペソ2:14、マタイ5:8)

暗黒の中で、メシヤの姿をこのように見せて頂いたイザヤの心の高まりに、共感出来るだろうか。後に、イエス様に親しく仕えた弟子のヨハネは「私たちもその栄光を見た」(ヨハネ1:14)と証言した。ペテロは、自分の弟子たちに「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(Ⅰペテロ1:8)と書き送っている。私たちも「主を見た」と言えるだろうか。

「万軍の主の熱心」

神の愛は妬む程に強く、神には不可能なことが無い。ことは、神の意志で始まり、神の力で適う。

Ⅲ御怒りは去らず(8-21)

預言者は、しばし、地上の喧騒を忘れ、神の国を飛翔した。それは、地上の事しか理解できない者には、空想の世界を遊んでいるとしか見えないであろう。しかし、霊の世界に身を置くことが、預言者に希望を与え、活動の底力となるのである。預言者は、時空を越えた神の国から呼び戻されると、再び現実の只中に身を置くことになる。

そこにいるのは、神の裁きを意に介さぬ人々、反省無き人々、傲慢不遜、自己過信、侵略と略奪の標的となっても、事態を認識できない者たちである。

「御怒りは去らず。なおも、御手は伸ばされている」という言葉が三度繰り返されているが、これがユダの現実なのである。どんなに警告されても、心を入れ替えようとしない頑なな民。イザヤは、この二つの世界(神の前とユダの現実)の落差によくも耐えたものである。

躓きや失敗は、一般的には人を謙虚にする。そこから反省が生まれ、やり直しの決意が起こる。しかし、時には、ますます心を頑なにする場合もある。ユダは後者の道を辿った。ある者は環境をしもべとして自分を鍛えるが、他の者は環境に捕らわれて奴隷となる。

「かしらも尾も」

長老、高官達、偽預言者たちの比喩である。男も女も例外ではない。

例外的なのは「みなしごもやもめも」という表現である。旧約聖書は、みなしご、やもめ、寄留者に慈悲深い扱いを求めている(イザヤ1:17、10:2、出エジプト22:21-22)しかし、ここでは「みなしごもやもめも」目こぼしされない。これは、神の裁きの峻厳さを表わしている。

国は挙げて恥ずべき事を語る。罪は万民のものである。

「悪は火のように燃えさかり・・・主の激しい怒りによって地は焼かれ」る。ユダヤ人は「異邦人は地獄の薪として造られた」といい慣らしてきたが、裁きは神の家から始まる。国土の荒廃・民心に労りなし・飢えと貪欲、このように絶望的状況も、人を謙遜にすることはできない。

それ故「御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」