イザヤ書8章

イザヤ08     マヘル・シャラル・ハシ・バズ



イザヤ書は、66章全体を通じて、名前に託したメッセージを37回も繰り返している。わけても、4章1節に始まり、7:3、14、8:3、9:6は、特筆すべきものである。

この一連の流れの中で「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」を理解したい。



Ⅰ預言者に男子誕生

「そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ」

イザヤは女預言者を妻に迎えた。女性の活躍は目立たないが皆無ではない(出エジプト15:20のミリアム、士師4:4のデボラ、Ⅱ列王22:14のフルダ、ネヘミヤ6:14のノアドヤなど)

イザヤが、同じ使命を持つ女預言者と結婚して男子を儲けると、主はその子を「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」と命名するように命じた。

「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」とは、この子が与えられる前から、イザヤが掲げてきた宣教命題であった(7章で、シェアル・ヤシュブと名づける事が先行)

その意味は「急げ、獲物、奪え、早く」或いは「獲物の戦士、急いで略奪」であると言われる。それは、後のアッシリヤ軍の侵攻と略奪の凄まじさを予告するものである。

預言者活動とは何と厳しいものか。今日の牧師や信徒が好んで付ける名前とは異質である。イザヤは、我が子の名を呼ぶたびに「マヘル・シャラル・ハシ・バズ・・・獲物の戦士、急いで略奪」と想起させられる。寝ても覚めても、獰猛な敵を意識させられる名である。イザヤにおいては、子の名前は「イスラエルのしるしとなる」(8:18)名前がメッセージであった。

しかも、それは近日に迫っている「この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである」

実際、ダマスコは前732年、サマリヤの滅亡は前722年であった。



Ⅱユダも主を侮り

「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる」

ここでは、水(川)がモチーフとして語られる(詩篇65:9)シロアハの水は、神の都エルサレムの水を指しており、これを蔑ろにするとは、神を頼みとしないことである。

「レツィンとレマルヤの子を喜んでいる」とは、イスラエルとアラムに心を引かれ、憧れてさえいる現実を痛烈に批判したものである(神に頼らず外国依存)

「見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する」

アハズ王は、アッシリヤ一辺倒の政策を選んだが、彼はやがて濁流のように襲いかかるアッシリヤの本質を見抜けない。ヒゼキヤの時代もアッシリヤの軛の下で苦しめられた(Ⅱ列王18:14-16)

「首にまで達する」とは、絶体絶命である。しかし、この極限のところから、逆転は始まる。それが「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」という展開である。これは、前章の希望と合致するものである。「神われらと共にいます」という告白共同体が絶滅することは、有る筈がない(Ⅱ列王19:3-4)

イエス様の生涯でも、敵に追い詰められたように見えるとき、誰も予期しなかった言葉が発せられ事態を一変したことは度々であった(ヨハネ8:7、ルカ20:25、37-38)

8節の言葉は、いかにも唐突に響くが、預言者の不屈な魂は神の声を聞き分けている。危機に直面して真相が見えてくる。

天路歴程を書いたジョン・バンヤンは神を間近に見た。死の影の谷を歩むキリスト者が、前方に2頭のライオンを見て立ち竦み、前進することができなくなる。しかも、引き返すことはできない。

やがて、暗闇に目が慣れてくると、ライオンが鎖に繋がれていることを発見する。二頭の獅子の僅かな隙間を、獅子の咆哮に怯えながらも安全に進む。

10節で、預言者は「神が、私たちとともにおられるからだ」と宣言し、勝利を疑わない。

たとえ国々が滅び行き、天地が過ぎ行くとも我らは滅びず(詩篇46:2)という、ふてぶてしいほどの確信を抱くのがキリスト教信仰の極意である。神の人から、神が臨在しておられるとの確信を奪う事は、誰にも、何ものにも出来ない。

徒に不安を抱き続けるのは、神への不信ではないか。ヨブ13:15-16を引用しよう。



Ⅲ主の警告

「まことに主は強い御手をもって私を捕え」

人々と意見を異にし、時代の潮流に逆らって生きることは容易ではない。しかし、私たちは真理に従って歩み生きる者です。主は真に恐るべき方を恐れよと教えている(マタイ10:28)

「妨げの石、躓きの岩」

イエス・キリスト自身が、不信仰な人々にとってそのようでした(使徒4:11-12)イザヤもこの事を承知していたようだ(イザヤ28:16、ロマ9:33)

「このあかしをたばね」

真理を知る者、委ねられた者は伝達の義務を負う。われ関せずと身を引くわけにはいかない。当座は民衆に不人気なメッセージであるが、必ず心に留める者がいる。それは、後に明らかになる。



Ⅳ預言者の確信

「私は主を待つ」

たとえ主が、今、み顔を隠していたとしても、主に信頼する。主を待ち望む。この方の他に頼むべき方はない。救いは、この主の外には、天にも地にもない(詩篇16:1、イザヤ40:31)

「私と、主が私に下さった子たちとは・・・イスラエルのしるしとなり」

預言者は、わが子の命名(シェアル・ヤシュブとマヘル・シャラル・ハシ・バズ)が正しかったことを確認する。これは失敗の許されない預言者生命を掛けた服従でした。

「シェアル・ヤシュブ」は敗北主義に聞こえるかもしれない(敗戦の中で、玉砕が勇ましいことだと考えた者たちがいる)

また「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」は、非国民、売国奴の誹りを免れないだろう。しかし、不快だと言うことで隠蔽しても、何も生れない。腐敗しているなら、病巣を指摘し、たじろがないで摘出しなければならない。イザヤの子たちは、まさしくイスラエルのしるしであった。

「民は自分の神に尋ねなければならない」

これは、偽り者たちの宣伝に軽々しく乗らないようにとの警告である。結局、信仰の選択は、押し付けられても、それを確信とするまでは力にならない。

イスラエルのリーダー・ヨシュアは、引退声明の中で「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい・・・もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」(ヨシュア24:14-15)と宣言している。

「おしえとあかしに尋ねなければ・・・夜明けがない」不穏な時代には、いかがわしい宗教的な活動が跋扈する(オウムはその典型であった)

この章は「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者」という表現で閉じている。背信、荒廃、絶望、暗黒が、後から後から途絶えることがない。

一体、光の訪れは有るのだろうか、極めて疑わしく見える。しかし、心していただきたい。旭日の輝きは、闇の向こう側に始まる。次章の目も眩むばかりの光の訪れが待たれる。