イザヤ書66章

イザヤ66章         新しい天と新しい地

ついに、イザヤ書の最終章に辿り着きました。難解な章節もありました。しかし、皆さんが今後、イザヤ書を読み返される時、真理の聖霊は皆さんをさらに深い境地に導き入れてくださるでしょう。真理の奥深さは、神様の懐と同じほど深いものです。従がって、一朝一夕に到達できるものではありません。しかし、神を愛し、ますます神に近づく事を願う者は、日毎に神に近づけられ、神にお会いすることができます(ヤコブ4:8)学びとは、望みに支えられた忍耐、その報いは喜びです。

Ⅰ主の主張(1-4)

「天はわたしの王座、地はわたしの足台」(詩11:4、103:19、マタイ5:34-35、使徒7:49ではステパノが引用)これは、天地を治めているのが主であることを主張しています。詩篇50:12では、表現を変えて「世界とそれに満ちるものはわたしのものだ」と言われます。

しかし、現実には「わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか」と言われるほど、主なる神は疎外されています。神の御子が降誕された時も同じでした。ヨハネの福音書は「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1:9)と記します。

造られた世界は、かかる認識を持っているでしょうか。バブル経済時代、地価が高騰して地上げ屋という連中が狂奔しました。僅かな土地のために住人を虐げたのは記憶に新しいことです。人間が地の所有権を主張することはなんと愚かしく滑稽なことでしょうか。

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」と、主は言われます。しかし、実際に人々が作り出して、地上に満ちているのは見せかけの贋ものばかりです。この不誠実に対して、預言者は神の憤りを代弁します。即ち「わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす」と。

神の御心は、こんなに単純ではありませんが、少なくとも預言者の悲憤慷慨が感じられます。

Ⅱ預言者の励まし(5-9)

預言者は「主のことばにおののく者たち」に、主に対する信頼を確信するように導きます。彼らは不誠実な同胞から虐げられて、信仰を揺るがされている人々です。彼らに敵意を抱く者たちは、同胞とは名ばかりです。仲間を侮り主の栄光を辱しめます。しかし、いつまでもそんなことがまかり通る筈はありません。神は約束を果たされます。

それが「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」という神の挑戦です。人の世では、アイデアばかりで実現する力が欠如しています。しかし、神の言葉は、神の時が満ちるなら必ず実現します。神の時を待つことが出来るのは信じる者たちだけです。

Ⅲ預言者の慰め(10-14)

「エルサレムとともに喜べ」

メサイヤの後半に“Glory to God(神に栄光)”という1章があります。そして“Rejoice greatly(存分に喜べ)”と続き、やがて“Behold the Lamb of God(見よ、神の子羊)”と展開します。私は散歩しながら音楽を聞くのを楽しんでいます。“Rejoice greatly”に入りますと、いきなり“Rejoice Rejoice Rejoice”と始まります。これを聞くと、思わず心が躍動し足が軽くなります。

抑圧されていた人々、人生に疲れて絶望し、心から楽しむことをすっかり忘れ果ててしまった人々に、神は命じます「喜べ(Rejoice)」(ルカ1:28)

人々の間では、空疎な言葉が繰り返されると不信感をまねくことがあります(選挙公約などはその典型です)しかし「神の言葉は生きていて力があります」(ヘブル4:12)その具体的な例は、主イエスがナインの寡婦に語ったことば「泣かなくてもよい」(ルカ7:13)です。この時、主は彼女の涙の源を拭ってくださいました。主の言葉は空手形ではありません。

ここでも主は「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる」と約束されます。

川には二種類あります。一年中満々と水をたたえているユーフラテスのような大河もあれば、雨季だけ水が溢れる空堀もあります。それ故、ことさらに「神の川は水で満ちています」(詩篇65:9)と言われる所以です。

Ⅳ預言者の警告(15-17)

「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる」

聖書には「火」そのものが忌まわしいものという考えはありません。むしろ「雲の柱、火の柱」と言われるように、神の聖なる臨在を語るものです。また「火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃え付かない」(43:2)という言葉もあります。

しかし、神を敵にすることがあるなら、それは惨憺たるものです。「激しく燃やし、火の炎をもって責めたて」られることになります。ここには、主の裁きの厳しさが手心を加えずに余すところなく記されています。

17節の「おのが身を聖別し、身をきよめて」と言う表現は、神に向けられた敬虔ではありません。偶像に捕らわれて狂喜している愚かで熱情的な者への痛烈な批判です。預言者エリヤもバアルに仕える者達に向かって同様の声を上げています(Ⅰ列王18:27-29)

Ⅴ終わりに(18-24)

「わたしの栄光を見る」

「わたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう」

この二つの言葉は一対をなすものです。神の栄光を見せていただく事は特権です。なぜなら、神は「唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(Ⅰテモテ6:15-16)

それにも拘わらず、私達は「キリストにあって」インマヌエル(神我らと共にいます)を確信しています。この特権には自ずから義務と責任が伴います。それが「告げ知らせる」ことです。預言者の霊的洞察の深さには驚くばかりです。

パウロが「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」(ローマ1:14-15)と言った心情は、イザヤの言葉に見事に応えています。

「新しい天と新しい地」については、すでに前章で語りました。ここでは、三つの言葉に託された意味を確認しておきます。

一つは「新しい」ということです。ギリシャ語の「アノーセン」という言葉は「上から」という意味を持っています(ヨハネ3:3、Ⅰペテロ1:23)時間的に「新しい」という言葉には、永続的な意味はありません。むしろ刻々と古びていく宿命を持たされています。しかし「新しい天と新しい地」は、神がお造りくださるものです。

それは「いつまでも続く」ということばに繋がります。

神は永遠ですから、神のいます「新しい天と新しい地」も永遠です。従がって、そこに名を刻まれた者たち(ルカ10:20)も永遠です。

そして最後に「わたしの前に礼拝に来る」

「新しい天と新しい地」即ち神の国では、礼拝をすることが生きるということです。ヨハネが描いた黙示録の神の国は、礼拝の光景に満ちています(黙示録4:8、10-11、5:12-13、7:10-12)

私たちが地上でささげる礼拝は、神の国でささげる礼拝の雛形というべきものです。礼拝を喜び楽しんでおられる方は、天国の前味を味わっているのです。

今、私達は21節に記された「わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする」という言葉を理解することができます。それは、まさしく礼拝の準備のためでした。