イザヤ書64章

イザヤ64章          天を裂いて下る神

この章にも前章と同様に、預言者の疑いではないが困惑している姿が見られます。彼は神の全能を知っています(1節)神のみ心を知り(5節)人間性も直視しています(5-6節)神と人との関係もわきまえています(8節)謙ってもいます(9節)それにも拘らず、預言者といえども焦燥感を免れることができません(12節)

神と人間に対して、これほど透徹した認識を持っている預言者でも、究極の平安は得がたいものだったようです。神を待ち望んできた旧約時代の聖徒たちを偲ぶ時、私たちがイエス・キリストにあって与えられている紛れもない救いの恵を改めて感謝させられます。

Ⅰ神を待ち望む

「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると」

神は確かに天におられます。天を仰ぐ者に神の存在は鮮やかです。しかし、預言者自身は地上におります。地上では、どちらを見ても神不在が際立ちます(神がいないわけではないが、人々が神を敬わず疎外している現実がある)悪の霊による不正な支配と人々の不義な生活。神に望みを置く預言者は叫びます「天を裂いて降りて来て下さい」と。

この激しい祈りには前例があります。ダビデの詩篇に「主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください」(144:5)とあります。これは、平たく言えば“早く伝家の宝刀を抜いてください”という叫びです。神には不可能なことはありませんが、天地には秩序があり神の時があります。しかし、それを押し曲げてでも、この願いを優先してくださいという差し迫った叫びです。

イザヤは天地の隔たりを感じつつ、天地の間の埋められることを願い求めていますが、クリスマスこそ、この叫びの応答です。パウロはその事実を「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2:6-8)と受け止めました。また、チャールス・ウエスレーは“御子は上なき位を捨てて、低きしず家を宿としませり”(聖歌123番2節)と詠いあげています。

「神を待ち望む者」

この世があげて神に背を向けているとき、預言者は自分たちを「神を待ち望む者」と告白します。これは、預言者の敬虔にたいする自負とも言えるでしょう。私たちは旧約聖書の人々のように救い主を待ち望むことはありません。既にインマヌエルの神を知っています。しかし、神を待ち望むことこそ、私たちの日常的基本的な生き方です。

「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者・・・」

ここでも正義がテーマになっています。不正・不義の支配する中で、義はかけがえがありません。預言者は、自分を一瞬「正義を行なう者」のグループに数えます。自分たちこそ神に迎え入れられるに相応しいと考えたのでしょう。しかし、次の瞬間「私たちは昔から罪を犯し続けています」と、自分たちも例外でないことを告白しています。そして「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます」と内省します。

相対的に見れば、あからさまな反逆者と敬虔な預言者の義には大きな隔たりがあります。しかし、神の御前では五十歩百歩です。誇るには値しません。それが主にあって生きる者に問われる厳しい自己認識です。

「それでも私たちは救われるでしょうか」

バチカンにあるシスティーナ礼拝堂の壁画にミケランジェロの「最後の審判」が描かれています。バルトロマイの持つ皮の顔は、画家の自画像だと言われています。決して良い役割を与えられてはいません。もしかすると、画家の自嘲気味ないたずらかもしれません。彼も「昔から罪を犯し続けて」神に値しない自己を否定することはできなかったのでしょう。しかし、そのような自己認識があり、最晩年の“ロンダニーニのピエタ”に結集したのではないかと、小生は思い巡らしています。

Ⅱ義について

義は大切にしなければならない徳ですが、その本源を見失ってはなりません。ヤコブは正義の感覚が一人歩きするのを「人の(正義の)怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1:20)と戒めています(天誅を下すなどは傲慢の極みです)

私たちは義憤などと言って正義を振りかざすことがありますが、神の前で論じる義はそんなに軽々しいものではありません。キリストの贖いによって到達するものです。

パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23-24)と教えています。ここでいう栄誉とは神の前に立つことを許される義のことです。

また「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく「誇る者は主にあって誇れ」と書かれているとおりになるためです」(Ⅰコリント1:30-31)とも記しています。義とはおよそ無縁な私達でしたが、今ではキリストから義の衣をいただいているのです。

「しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません」

預言者はさきに「私たちの義はみな、不潔な着物のようです」と自己批判をしました。しかし一般的には、自己を正当化する傲慢さは抜き難いものです。その当然の帰結が「あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました」という結果を招きます。

Ⅲ確信と焦燥の狭間で

「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です」

ここには、外見が何であれ、状況が何であれ、揺るぎない確信が表明されています。それが「あなたは私たちの父です」という大胆な信仰告白です。

預言者は、ここで神との関係性を二つの言葉で言い表しています。一つは創造者なる神の愛に結ばれた関係、即ち父です。もう一つは、人間存在のあるがままを指摘するもの、造られた器に過ぎないのですから陶器師です。

人は悲しいことに、神の前における自分の惨めさを認めると、神との関係を自ら遠ざけてしまう傾向があります。よく言えば神に遠慮するのですが、自虐的になってはなりません。

預言者は大胆にも「あなたは私たちの父です」と言い切りました。これはどんなに畏れ多いことか。しかし、天晴れな信仰という他ありません。

神のひとり子であるイエス様は文字通り神の御子でしたが、当時のパリサイ人たちはイエス様が父なる神様を「わたしの父」というだけで目くじらを立てたものです(ヨハネ5:18、8:31も参照)

大胆な揺るぎのない確信、その上で、自らを造られた者、地のちりにすぎない事を心に留めておくべきでしょう。

「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか」

「あなたの聖なる町々は荒野となっています」この光景を目にして心は痛みます。それは、一日も早い回復を希求するように駆り立てられます。

神の沈黙の意味・意図は何か。考えて簡単に答えが出るような問いではありません。しかし、神を深く思うことは、神への信頼を強くしてくれます。神の時は遅すぎることはありません。膿を絞るのは十分化膿してからです。

この一節は、預言者の焦燥感を伝えているようではありますが、それだけではありません。このような切羽詰った思いがあればこそ、冒頭の祈願「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう」が生れるのではないでしょうか。