イザヤ書63章

イザヤ63           エドムから来る者

この章は、滑らかな文章とは言えません。前後の関係が飛躍して、通読するには分かりにくい文脈です。しかし、この一様でないところが、自己矛盾を抱えた人間の現実を反映しているように考えられます。そのような不安定な中にあっても、人は神の輝きを見せられ大胆不敵な確信に導かれます。16節の告白「まことに、あなたは私たちの父です・・・」などは圧巻とも言うべきものです。

Ⅰエドムから来る者

「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか・・・」

「だれか」と問う預言者には、見当もつかないという意外性が感じられますが「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ」という答えが用意されています。これは明らかに主です。しかし、主の出現が「エドムから・・・ボツラから」という表現は、預言者にも余りに意外で意表を突くものです。そこには、誰も予期しないような光景が表現されているのです。

34章5-6節には、エドムやボツラで復讐としての虐殺が預言されていますが、この章が言おうとしていることは全く別なことです。

エドムは、イスラエルの先祖ヤコブの兄エソウから出た民族です。ボツラ(ブドウを集めるの意)はエドムを代表する都の名前です。イスラエルにとって、エドムは親戚筋ではありますが、その歴史的な関係は快いものではありません(民数記20:18、申命記23:7)

エドムの先祖エソウは、俗悪な者(ヘブル12:16、創世記25:33-34)として神に退けられました。また、流浪の身であったダビデをサウロ王に密告し、祭司アヒメレク一族を虐殺したエドム人ドエグの忌まわしい記憶も忘れることが出来ません(Ⅰサムエル21:7、22:9,18)イエス様がベツレヘムに降誕された時、ベツレヘムの幼児を虐殺したヘロデ王もエドム人でした。彼は、義母・妻・子どもを初めとして無数の善良な人々の血を流しました。エドムとは赤色を意味しますが、それは正に血の色そのものであり、きわめて象徴的です。

ナタナエル流に皮肉な言い方をすれば“エドムから何の良い者が出るだろう”(ヨハネ1:46)と言うのが世間の常識です。しかし、神がなさる事は人知をはるかに越えています。人が絶望の眼差しを向けるような所から、神は希望の新芽を芽生えさせてくださいます。

「深紅の衣を着て来る者」

エドムの真っ只中から来る者があるなら、衣装は血の色、赤が似合いです。しかし、預言者は、そこに救いをもたらす者を見出します。私たちは、この言葉からイエス様を連想させられます。

両手両足を十字架に釘付けられ、脇腹を槍で突かれた主イエスの全身は血まみれでした。復活の主イエスは、血の道を通ってやって来たと言えます。ただし、他者を殺戮して返り血を浴びたのではありません。主イエスは、私たちの罪を贖うために、全身ご自分の血に染まったのです。エドム人は、他人の血を流し続けた者たちの典型でした。そこでは、悲しみや憎しみしか生れません。

かつて、エドムは残酷な血を流す者でしたが、預言者が言おうとしているのは、血を流すのに早い絶望的な世界の代表であるエドムから、救いの希望が登場してくると証言しているのです。人を恐怖に追い込んだ血の色が、キリストにあってきよめと救いの旗印となったことは興味深いことです。

「復讐の日・・・贖いの年」

神の恵みと救いの訪れを軽はずみに考えることは正しくありません。主が来ると言うことは、裁きと救いとをもたらします。これまで「復讐の日」は、残酷な報復の日として語られてきました。

しかし、ここに至っては「贖いの年」と同義語であるかのような扱いを受けています。相変わらず、前後の光景は身の竦むような言葉で言い表されていますが、敢えて言うならば、復讐は、贖いという圧倒的な恵に場所を譲りかけています。

「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう」

この時の預言者の感動を、後にパウロが見事に言い表しています。即ち「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか」(ローマ11:33-34)と。神の復讐で終らなければならなかった罪の数々が贖いをもたらす。測り知れない神の奇しきみわざです。

Ⅱ主の愛とあわれみ

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」

8-10節は、神の慈愛と人の忘恩・反逆を余すところなく語っています。放蕩息子を持てば、親には涙の乾く暇がありません。初めて、父なる神の苦悩が知れることでしょう。それでも真の愛は、決して絶望しません。望み得ないときにも望みを抱きます。神はそのような方、アブラハムも然りです。

「主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した」

11-14節は一転します。反逆を重ねてきた者にも、光の届く日があるようです。イスラエルは悩みの中で、モーセの歴史的な偉業、それを可能にした神の恵みに心を向けます。預言者のこの観察こそは、後に主イエスによって語られた放蕩息子の例え話の背景をなすものではないでしょううか。

罪の中で苦しんだ息子は、行き詰まって初めて本心に帰り、そこから悔い改めと勇気が湧きます。彼は、自分の罪を認め、謝罪のために最後の力を振り絞って立ち上がり家路を指します。

Ⅲ主よ。どうかお帰り下さい

「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか」

かつてイスラエルを導いたモーセの神は、どこにおられるのでしょうか。疑いもなく栄光の天におられます。しかし、イスラエルの事態は一向によくなりません。神がそっぽを向いているとは思えません。しかし、神がイスラエルの解放を抑制しておられるように見えます。

「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です」

ここには決して諦めない人々がいます。いつ、どこで、こんなに大胆な確信を得たのでしょうか。「たとい、アブラハムが私たちを知らず」とは、普通のイスラエル人が口にする言葉ではありません。イスラエル人の間では、信仰の父アブラハムは神のような存在でした(ルカ16:22)人々には、先祖アブラハムの名前さえ名乗れば一件落着の安易な気分がありました(ルカ3:8)それほどアブラハムとの関係は重要でした。しかし、ここでは、たとえアブラハムに絶縁状を突きつけられても、神を父と呼んで憚らない人々が登場します。神を父と呼んでイエス様に否定された人々と対比してください(ヨハネ8:33、39、41、44)ローマ書8:15の「アバ父」は、既にここにも見られます。

「どうかお帰りください」

この言葉をもって、預言者は直面している窮状を訴えています。信仰の告白、その確認にも拘わらず、神の聖なる民も避けられない苦難に曝されてきました。自分たちには、それから脱却するすべがありません。神が帰って来てくださる事を期待するばかりです。

神と人との間には大きな隔たりがあります。普通は、背いて離反した人間が戻ってくるのが慣用的な表現です。しかし、迷いでた者には帰り道が分かりません(ヨハネ14:6)その点から見れば、罪人を放り出した神様に手を差し伸べていただかなければなりません。新約聖書のヤコブ書は「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(4:8)と言っています。結局、二つの表現は同じ事を意味しているのです。

「あなたの御名で」

キリストの弟子たちは、世界でただ一つの名、イエス・キリストの名によって生き、活かし、行動しました。私達も御名に価する者とさせていただきたいものです(使徒4:12、5:41)