イザヤ書62章

イザヤ62章      見捨てられない町

この章は、エルサレムを地上における神の都のシンボルとして語っています。エルサレムは神の民イスラエルの首都ですから、イスラエルが繁栄している限り栄えるのは当然です。しかし、イスラエルが神に背き、神に見捨てられることになれば、エルサレムは速やかに廃墟と化します。責任はひとえにイスラエルにあります。

ダビデやソロモンの時代、エルサレムは難攻不落の町として誇り高く栄えたものです。しかし、いつも栄えていたわけではありません。エレミヤの時代には、バビロンに焼き滅ぼされ焦土と化しました。70年後に捕囚から解放された時のエルサレムは荒れ果てた町でした。

イエス様の時代には、エルサレムも再びイスラエルの首都としての繁栄を取り戻していましたが、主イエスの目に映るエルサレムは嘆きの対象でした。主は、エルサレムが将来迎える悲劇的な壊滅を預言して「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」(マタイ23:37-38)と慨嘆されました。実際、およそ40年後、紀元70年にローマ軍はエルサレムを破壊しました。死者の数10万人と言われます。

この章で、預言者はエルサレムの繁栄という見地からイスラエルの将来を語ります。

Ⅰあなたの神はあなたを喜ぶ

「わたしは黙っていない」

沈黙には様々な意味合いがあります。最善の時が訪れるのを待ち望み、忍耐の強く黙している場合があります。絶望的状況に置かれて、諦めきった敗北主義もあります。どうすることも出来ないが、せめて現状を肯定していないという抵抗の表明もあります。

人が置かれた状況にあってどのような態度を取るかは一様ではありません。決断は強いられるものではなく、各自に委ねられているものです。ですから、他人のことはとやかく言えません。

ここで預言者は、虐げられてきたエルサレムのために、神が沈黙される時は過ぎ去ったと認識します。即ち「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない」

預言者には、やがてエルサレムが朝日のように光を放つ時が訪れるとの確信があります。それならば、その先駆けが必要です。彼は声を張り上げて、神の訪れの日を辛抱強く語る者です。イエス様に先立ってバプテスマのヨハネが登場したように。

「あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう」

エルサレムは神の平和と言う意味です。これは、誇りと期待から生れた命名、素晴らしい名です。しかし、エルサレムに与えられる新しい名は、ちょっと奇妙です。これまでのように、なにかに憧れて名づけるのではありません。むしろ否定から始まります「見捨てられている(アズーバー)」と言われず「荒れ果てている(シェマーマー)」と言われません。それは、このような言葉が巷に横行していたからでしょう。そして、最後には挑戦的に「見捨てられない町」と呼ばれます。このような名こそ新しい名に相応しいものです。捉えようがなく漠然としているようですが、この言葉の懐の広さ深さを是非味わってください(ヨハネ14:18)これこそインマヌエルに通じます。

「わたしの喜びは、彼女にある(ヘフツィ・バッハ)」

それは、主の「掌中の玉」として大切にされ、王に愛される王妃の如くです(Ⅱ列王21:1 マナセの母の名)この言葉は、前章の61章10節「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ」と深く関連しているに違いありません。喜びの本源は主なる神ですが、エルサレムも主御自身の喜びとなると言われています(この論理は、光の子が光と呼ばれるのに似ている。一種の同化作用である・ヨハネ8:12、12:36)

「あなたの国は夫のある国と呼ばれよう」

この比喩は、私達には特別な意味が感じられませんが、配偶による祝福に基づいています。

預言者は、神と人の関係をしばしば夫と妻の関係で語ります(エレミヤ3章)それほど夫婦関係は奥行きの深いものです。しかし、現実の夫婦関係は至る所で破綻をきたしています(比喩に用いるには不適当なほどに)そして、今日では、その関係性はますます貧しいものになっています。それ故、改めて配偶関係を再認識するために取り上げられているのかもしれません(戦争などで夫のない家族が多かったであろう。イザヤ4:1は不名誉と考える事情を伝えている)

「あなたの神はあなたを喜ぶ」

これはエルサレムに与えられた祝福であり、聖徒たちのレベルアップです。神が喜びの本源だと語ってきました。それが見事に成長開花して「神はあなたを喜ぶ」となります。神との間の高い障壁が取り除かれて、相互の交流が可能になった光景です。

新約聖書も主を喜ぶことを教えています。そして神に喜ばれる事を目指しています(Ⅰペテロ2:20、Ⅰヨハネ3:22)私たちは主の喜びとなっているでしょうか。

これをパウロの言葉に置き換えるなら「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(4:13)ということでしょう。

Ⅱ彼らは、聖なる民、主に贖われた者

「城壁の上に見張り人を置いた」

見張り人の役割は明白です。しかし、預言者は「見張り人はみな、盲人で、知ることがない。彼らはみな、おしの犬で、ほえることもできない。夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている」(56:10)と糾弾したことがあります。

見張りとは単調な仕事で緊張を失いやすいものですが、これは全体の生死にかかわるものです。エゼキエルは、見張り人の勤めの重要性を喚起しています(33章6-8節)

「主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない」

時には沈黙が金と言われることもありますが、ここでは積極的に語る使命を啓発しています。主イエスがエルサレムに入城された時、群集はホサナの歓声で迎えました。パリサイ人がこれを黙らせようとすると、主は「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(ルカ19:40、ハバクク2:11)とたしなめられました。

確かに、声を上げても聞いてもらえないことがあります「笛を吹いても踊らず(マタイ11:17)」と言われますが「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ローマ10:14)という嘆きも心に留めなければなりません。

それは「主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない」と言われました。しかし、実際の歴史的神の民は、こんなに忍耐強くはありませんでした。目先のことが一段落すると、未だ道半ばなのに一休みしてしまう傾向がありました。

この励ましは、まさしく1節の主が沈黙を破られることに呼応しています。1節では、光の到来、即ち兆しが見える時まででした。7節では、エルサレムの確立までと明白にされています。神が始めて、神の民が継承します。見事な連携振りではありませんか。

「主は右の手と力強い腕によって」

主の御腕は、エルサレムの回復と繁栄を誓います。もはや、周辺のハイエナのような連中に脅かされる心配はありません。

エルサレムは平和と繁栄を謳歌することが出来ます。これまでは、自然の災害や強者の略奪など、蒔く者が刈り取ることの出来ない時がありました。

「見よ。あなたの救いが来る」

預言者ゼカリヤは、この日を「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(9:9)と言っております。

それ故、エルサレムは「見捨てられない町(イール・ロー・ネェザーバー)」と呼ばれます。