イザヤ書61章

イザヤ61章         捕らわれ人に解放を

この章もメシヤの到来を預言したものです。主イエスは、ナザレの会堂でイザヤ書を朗読するように求められた時、この言葉を選んで朗読し「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と明言されました。主イエスが来られたので預言が成就したということです。イエス様こそ、預言者が遥かに待ち望んでいたメシヤに他なりません。主イエスの御姿を思い描きながら読み進めてみたいと思います。

Ⅰ主の霊がわたしの上にある

「主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ・・・」

イザヤは11章2節で、メシヤの上に「主の霊がとどまる」と預言しました。メシヤと主の霊は不可分の関係です。なぜなら、メシヤとは油を注がれた者の意味です。そして、油は神の霊の比喩に用いられたからです(ヨハネもこの古典的な表現を用いている・Ⅰヨハネ2:20、27)

油注ぎは、一般的には祭司や預言者あるいは王の任職の儀式を想起させるものです。しかし、後年、普通名詞であったメシヤは、単に油を注がれた者のことではなく、その究極の実現者、即ち神が遣わしてくださるに違いない救い主お一人を指すようになりました(言わば固有名詞となる)

このメシヤが来られる時「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め」ることが期待されていました。

それは「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるため」です。このような時代の訪れ、即ち国家的な屈辱からの解放がどんなに長い間待ち望まれたことでしょう。実にイスラエルは、捕囚以来、数百年に及ぶ信仰の希望を掲げ続けてきたのです。

主イエスはこの期待に対して躊躇せず「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と大胆に宣言されました。

イエス様は「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません」(ルカ12:4)と戒め、人間が霊性を優先するように命じました。しかし、病を負う者や世間から虐げられ疎外されている人々を決して見過ごすことはありませんでした。

ここには、世に言う〔解放の神学・民衆の神学・荊冠の神学・フェミニズムの神学〕との接点はあります。しかし、福音の最大にして究極的な目標を見誤ることがあってはなりません。人間存在は霊と肉なのですから、そこに優先順位や秩序は求められますが、いずれか一方が蔑ろにされるということがあってはなりません。

ところで「われわれの神の復讐」という言葉に触れておきます。「復讐」という表現は穏やかではありません。初期の思想では「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る」(イザヤ13:6)と、読者を圧倒する凄まじいものでした。しかし、後には「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ」(イザヤ63:4)という表現もあります。後者では、復讐が破壊性よりも贖いと同列に置かれていることに着目してください。復讐という表現は慣用的ではありますが、実質は全く姿を変えて贖いを高揚させているのです。

もう一つ「彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう」という言葉にも言及しておきます。詩篇1篇にも、主に繋がっている生き方は、水脈に根を下している樹木として語られています。しかし、これまで「主の植木」という具体的な表現はありませんでした。この表現を巧みに継承したのはパウロです。彼はローマ書11:17-24で、オリーブの木になぞらえて、ユダヤ人を元木、異邦人をその元木に接木された枝として語っています。

Ⅱわたしは公義を愛する主だ

「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する・・・」

これは、解放に続く街の再建の様子を描写しています。

「他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる」という表現も、外国人を奴隷同様に使用するという意味ではありません。文学的表現と言いますか、今までは奴隷同様の扱いを受けてきたが、それは逆転するような恩恵に与る事を最大級の表現をもって表わしたものです。

今日、日本の状況は課題をたくさん持っています。バブルの時代、確かに物質文明の繁栄を究め、外国人労働者が就業し、世界の富がかき集められたこともありました。しかし、そんな時代は速やかに跡形もなく過ぎ去ってしまいました。その当時、私たちは恵まれた先進国として、その責任を正しく果したと言えるでしょうか。

さて、分業というものがあるなら「あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる」ということも考慮しなければなりません。主の祭司は栄誉ですが、これをどちらが偉いか、どちらが優位かといった次元で考えるなら、それは世俗の計りと同じです(ローマ人は異邦人だが、多く与えられた者の責任を認識していた)

ここでも、神の祝福は「あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る」と表現されていますが、それは富の独占を許容するとか、搾取を肯定するものではありません。ただただ取り戻した祝福の豊かさを語っているのです。

有頂天になって、自分たちだけが繁栄に与るに相応しいなどと思い上がることがあってはなりません。そのために「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ」と念を押されています。

Ⅲわたしは主によって大いに楽しみ

この節のわたしは、祝福を先取りする預言者であり、実際に時満ちて神の恩恵に与る神の民のことを語っています。

楽しみや喜びが主に根ざしていることは素晴らしいことです。現実の世界では、楽しみや喜びは、真に壊れやすいものです。それは、儚いものに寄りかかっているからです。しかし、永遠に変らない主によって楽しみ喜ぶなら、それは色褪せることがありません。

詩人は詠いました「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)と。

「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださる」

このような表現は、詩篇などにも見られます(詩篇132:9,16)これは遡れば、エデンの園で主が皮の衣を用意してくださったことにまで行き着くことでしょう。

衣装は大切な役割を持っています。不義は汚れた衣とみなされ、義の衣は主から賜るものです。新約聖書の「義認」という表現は、義を着せられるということです。パウロはエペソ書やコロサイ書の中で、神の義を着ることについて繰り返し述べています(エペソ4:22-24、コロサイ3:8-14)黙示録でも「白い衣を買いなさい」(3:18、5)という表現を用います。

「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ」

かつて、大地は人の罪の為に呪われ茨とアザミを生じ、アベルの悲しみと嘆きは復讐を求めて叫びましたが、創造者は再び主となられました。

預言者はイスラエルの回復だけを望んでいません。全世界的な視野を持っています。いつのころからか、グローバルという言葉が使われるようになりました。しかし、世界の現実は、相変わらず大国のエゴが罷り通っています。

願わくは、預言者的な視野を持ち続けたいものです。預言者はここで「すべての国」といいます。先には「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」(11:9)と言いました。このような世界観を養われなければ、正しく福音に仕えるとはいえません。