イザヤ書60章

イザヤ60            主の栄光が輝く

イザヤ書は、ページを開くたびに、私たちを新しい境地に導き入れてくれます。53章の受難のしもべの描写は、これまで誰の心にも思い浮かばなかった神の救いの業を見せてくれました。預言者は信じ難いメシヤの姿を語り、それは時が満ちてイエス様において成就しました。

本章では、メシヤによる贖いのみならず、もっと究極的な神の国を垣間見せてくれます。それは、荒廃したイスラエルの復興という姿で語られていますが、その枠に留まるものではありません。

預言者にとって、救いとは第一義的にはイスラエルの再興です。それがメシヤを待望させました。そして、メシヤの本性に近づくほどに、救いの広さ深さを知らされます。そして、物質的な地上の救いだけでなく、霊的な永遠の贖いに開眼させられたのです。

しかし、一般の民衆レベルでは、救いとはイスラエルの国威が高められる事という憧れから離れる事ができません。主イエスが復活された後でさえも、主の弟子達の最大の関心事は「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」という言葉に言い表されています。

幸いなことに、今日の私たちは救いの広がりの大きさを知っています。救いは、過去の罪から解放され(新生)現在を生かされ(聖化)将来に完成される(栄化)壮大なものです。

預言者たちは、この救いを新約聖書が伝えるほど(Ⅱコリント3:18、Ⅰヨハネ3:2)詳細に亘って明らかに理解していたわけではありませんが、それにも拘らず、彼らは究極の恩恵を垣間見ていたのです。それは、19-20節の言葉で窺い知れます(黙示録21:23、22:5)

Ⅰ主の栄光が輝く

「起きよ。光を放て」

預言者は、長く闇の中に閉ざされて沈黙を強いられていた者に光の到来を告げます。それは、春の訪れを告げるかのようです。冬のあいだ地中にひっそりと息を潜めていた生き物や木枯らしに耐えてきた木々は、生命を再開させてくれる春を待ち侘びていますが、時が来ると百花繚乱です。

「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上にかがやいているからだ」

あなたとは誰のことでしょうか。明らかに主とは区別されています。しかし「あなたの光」という表現は、私たちを戸惑わせます。一読すると固有の光を持っている「あなた」を指しているかのようです。しかし「主は私の光」(詩篇27:1)という表現を思い出すなら、自然に受け入れられます。どうやら、特別な「あなた」ではなく、主の光にあずかる者一般(或いは、民族や集団)を指しているようです(14節)

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」

このような言葉で表現される「あなたの光」は、前項とは違います。私たちの思いをまっすぐにイエス様に結びつけます。しかし、新約聖書を開くと、もっと広く一般的な恵を指していることが明らかです。例えばパウロについて「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」(使徒の働き9:15)と言われています。そして、私たちキリスト者が担っているのも同じ主の御名・臨在・栄光です。

「目を上げて、あたりを見よ」

気がつかずにいたが、いつの間にか周囲は一変しているのです。捕らわれていた人々の帰還を先取りしています。彼らは散らされていた地の果てから戻って来ます。彼らは手ぶらで帰ってきません。彼らに回復される富と財宝が、次のような具体的な表現で描写されています。

「らくだの大群、ミデアンとエファの若いらくだ・創世記37:28」

「ケダルの羊の群れ・創世記25:13」

「タルシシュの船・Ⅰ列王10:22」

「レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、桧・詩篇29:5、92:12」

「青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀」

これらの言葉は、いずれも神の豊かな回復の恩恵を、自分たちの言葉による最大の表現です。

「外国人もあなたの城壁を建て直し」

実際、エルサレムの再建を許して援助したのは、ペルシャのクロス王です(エズラ6:4,8)後に、エドム人ヘロデは(彼の動機が何であれ)エルサレム神殿を再建しました。人は自己本位の政治的野心で動くが、神はそれさえも僕の如くに用います(イエス様誕生の折の人工調査も同様です。皇帝の都合ですが、かくしてベツレヘム誕生の預言が成就しました)

「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない」

一般的には、門は閉じて役割を果たすものです。閉じることが出来ない門は壊れているのです。門は、常に内と外とを区別します。世の中では“門前払い”されることがしばしばです。しかし、神の家は昼も夜も開かれています。遅れて来る者に開かれているのです。

「あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121:3-4)と歌われている通りです。これを踏まえて、イエス様は「わたしは門です」(ヨハネ10:9)と言われました。

「平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする」

正義と平和の共存は容易ではありません。キケロは“不正が支配する平和は正義の戦いに優る”と言います。なんともやり切れない言葉です。しかし、彼は、正義のための戦いが、結局のところ、残虐極まりない事を知っていたからです。

しかし、神の恩恵のあるところでは「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています」(詩篇85:10)と、喜び楽しむことができます。

Ⅱ主があなたの永遠の光となる

「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる」

古代社会で(今日とて同様だが)太陽や月を無用とした発言を聞いたことがありません。太陽は神と同義にさえ用いられてきました。

王たちは、自分を権威付けるために“太陽の子”であると詐称してきました。しかし、イスラエルだけは別です。イスラエルは、創造者と造られた物の区別を知っています。神の御前では太陽はしもべにすぎません(詩篇19:4-6)

しかし、太陽そのものを卑しめているわけではありません。実際に、万物はその恩恵を受けて生かされているのですから。

しかし、預言者の歓喜は高まり「主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる」という大胆な確信に到達した時「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず」という、日月不要論が思わず飛び出したのでしょう。

この表現は、黙示録で天国を描写するのに、そのまま用いられているではありませんか。

「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示録21:22-23)

「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である」(黙示録22:5)

「あなたの嘆き悲しむ日が終わる」

これも黙示録で繰り返されています。即ち「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(21:3-4)

預言者の霊の目は、いよいよ開かれて止まるところを知りません。もちろん、真理の御霊の導きのもとで預言者は開眼されているのですが、永遠の奥義をかくも鮮やかに見せられるとは感嘆するほかありません。