イザヤ書6章

イザヤ06 聖なる主を見る

イザヤの預言者活動は、ウジヤ王の発病、即ちヨタム王の即位年(759)頃始まったと考えられる。おそらくイザヤは20才前後の青年ではなかったろうか
(以来、彼は60年に亘り活動)
優れた資質に恵まれ、ユダの繁栄を取り戻したウジヤ王は、中興の祖とも言うべき人材であったが「彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」(Ⅱ歴代26:16-22)“驕る平氏は久しからず”と言われるが、避け難い道である。常に最大の敵は自分の内にある(獅子心中の虫)
ウジヤ王の身に起こったことは、青年イザヤを悲憤慷慨させたに違いない。彼は立ち上がり、神への熱情たぎる思いを傾けて、人々の罪を糾弾した。
しかし、熱心は大きな力ではあるが、神の御業は人の情熱だけで担えるものではない。有名な聖句「権力によらず、能力によらず、わたしの霊による」(ゼカリヤ4:6)を想起する。
どんなに知恵や才覚に恵まれていても、この奥義に到達しないと、遅かれ早かれ挫折を味わうことになる。疲れ果てた後「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった」(ルカ7:32)と慨嘆して止まない。この道は、勇猛果敢で知られる預言者エリヤも通った(Ⅰ列王19:3-18)情熱が空回りするほど虚しさを感じることはない。

Ⅰウジヤ王の死んだ年
ウジヤが死んだのは(BC、736年)不信仰で愚かなアハズ王(744-729)の時代。善良なヨタム王の治世(759-744)が短く、次に登場したアハズは頑迷で凶暴、その上、再起を願っていたウジヤはついに帰らぬ人となった(ウジヤは王として28年、その後、病んだ年数は23年)
アハズ王の時代、ただ一つの抑制機能は病めるウジヤ王の存在であった。王の死は、ブレーキを失った暴走車の如き時代を迎える。これは、王家とユダの現実から見ると、絶望的な状況である。
しかし、目に見えるあらゆる望みが消え果た時、目には見えないもの、永遠のものだけが残ることを知るに至るのではないか。
預言者は神に近づく「神に近づきなさい。そうすれば、神があなた方に近づかれる」(ヤコブ4:8)俗に“苦しい時の神頼み”と言う。不幸な事に、彼らの神は“鰯の頭”の類である。それは、気休めに過ぎない。詩人の信仰と対比したい(詩篇50:15)
イザヤは、一面では絶望的な状況に追い込まれているが、その結果、ただひとり真に存在するお方「わたしはある」(出エジプト3:14)と主張される方に会う(イエス様は、幾たびもエゴー・エィミーを主張された。ヨハネ福音書参照)
「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」
イザヤは貴族の出身である。それ故、王の玉座に慣れ親しんでいた。かつては、王座に尊崇の念を抱いた事もあったに違いない。しかし、既に王座が虚栄・虚飾の座、王は張子の虎に過ぎない事を痛感させられた。その中で、栄光の主の臨在に触れたのである。
御座の描写は幻である(ヨハネ1:18、Ⅰテモテ6:16)それ故、御座の光景をあまり詳細に論じないほうがよい。そのメッセージ性についてだけ追求しよう。
アハズ王は、異教の偶像礼拝に憧れ、それを取り入れた(Ⅱ列王16:3、10-12)ユダの神殿はすでに形骸化している。心ある者たちの憂いを募らせたことか。しかし、神は神を求める者の近くにおられる。お会い下さる(イザヤ55:6、エレミヤ29:12-14)
セラフィムは「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と叫ぶ。黙示録も、天の光景を描写する(黙示録4:8、詩篇22:3)ヨハネは、預言者の記述から学んだ。
現実の社会を見ると、王の暴挙や偶像礼拝が蔓延しているが、目をあげるなら神が聖なる神殿に主権者として座して(満ちて)いるのを見る(40:26)
セラフィムもケルビム同様、実態は不明だが、神の近くに仕えて、聖性の守護者と考えたら良い。六つの翼を持ち、二つで顔を覆い(礼拝)二つで両足を覆い(謙り)二つで飛びかける(仕える)
神の聖性は、イザヤ書に特徴的。「イスラエルの聖なる方(ケドーシ・イスラーエル)」の頻度が、イザヤ書に高い(イザヤ24、エレミヤ2、エゼキエル1、詩篇3)のは、この経験によるのであろう。神の聖性を軽視する時代風潮と、預言者認識との落差の大きさを痛感する(Ⅰペテロ1:15-16)

Ⅱ預言者の自己認識と献身
預言者は「ああ、私はもうだめだ。私は唇の汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」と、絶望的な思いにかられる。何故だろうか。
5章はイザヤの“快刀乱麻を断つ”が如き明快な宣言でした。彼は、舌鋒鋭く人々の罪を糾弾して溜飲の下がる思いがする。鬱憤を晴らした事か。しかし、それは相対的な自己満足に過ぎなかった。今、改めて主の前に引き出され、自分の卑しさを知る。他者に向けていた眼差しを己に向けたとき、五十歩百歩であることに気づいた。
「ああ、私はもうだめだ」とは、絶望的な叫びであるが、新しい自己発見でもある。こうして、虚勢を張ることを止め、独りよがりを止め、他者を裁く事をやめる(マタイ7:1-5)
すると、セラフィムが祭壇の上から燃えさかる炭を取り、預言者の口に当てて「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」と宣する。
これは贖罪経験の徹底
汚れをきよめるのは神の恵み、神の祭壇の火、この点においてイザヤは全く受動的である。人にはいかなる功績もない。人にあるのは、前節の罪の悔い改めと自己絶望の告白のみ。これは功績ではない。実に「功なくして神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって救われる」(ローマ3:24)ことの先取りである(ローマ7:24-8:1)
併せて、これはペンテコステの先取り
火は焼き尽くしきよめる聖霊のシンボルである。主イエスに下られた聖霊は鳩のように穏やかであったが(ルカ3:21-22)ペンテコステの日、弟子達の臨んだ聖霊は炎であった(使徒の働き2:2)それゆえ、この時イザヤは、聖霊によってきよめられたと考えることが出来る。
聖霊は人を真理に導く
主は「すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(ヨハネ16:13)と言われた。人は聖霊を宿して、神の御心を知ると言えよう。
預言者は、主の声を聞く「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」これは、正しく神の求人広告である(エンデュアランス号の求人広告)
神は、仲保者のいない事を怪しむ(詩篇14:2-3)主イエスは「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れを待っている(ヨハネ4:35)と、弟子を促され「収穫は多いが、働き人が少ないのです」(マタイ9:37)と嘆かれた
主の声には速やかな応答が相応しい「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブル3:15)とは警告である。明日は当にならない。
イザヤは応えた「ここに、私がおります。私を遣わしてください(ヒンニー・シェラヘイニー)」再献身である。
預言者たちの召命は一様ではなかった。ギデオンは恐れ(士師6:15)エレミヤは若年を口実に、しり込みした(エレミヤ1:6)自ら進んで名乗り出る者たちもいる(アモス3:8、エレミヤ20:9)
委ねられた任務は難解
「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために」
これは、民を頑にするメッセージと言われる・・・。
「主よ、いつまでですか」と訪ねると「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで」と。
「その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株」切り倒された木にはひこばえが生える。絶滅の厳しさが暗示されているが、聖なる希望が大胆に掲げられている。これが、試練の中で不屈なユダヤ人魂を培ってきた。