イザヤ書59章

イザヤ59            我らの主の驚き

私たちの日常生活で、太陽が顔を見せてくれるか見せてくれないか、晴天か曇天かは大違いです。太陽の光と熱を浴びなければ、地上のあらゆる動植物は生きることができません。

しかし、曇天の日でも、太陽そのものが光や熱の放射を惜しんでいるわけではありません。どこからか湧き起こった雲が、地上と太陽とを隔てているにすぎないのです。預言者は、この日常的な現象から、神との関係を学んだようです。

Ⅰなぜ、主は聞いてくださらないのか(1-11)

前の章で、神の民は「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか」(58:3)と愚痴をもらしました。彼らの判断は相変わらず手前勝手です。こともあろうに、主が力不足であるかのように訴えます。

これに対して預言者は「主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と、理由を明らかにします。罪こそは、神と人とを隔てる壁です。ライフラインを切断するものです。認罪には正直と謙虚が問われる。

3-8節には、彼らの咎、彼らの罪が極めて具体的・詳細に論じられています。

「あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく」と。

汚れた手の行為と不正な言葉の横行が指摘されています。これは、自己中心から発するものです。その延長に社会的な不正行為の蔓延があり、正義をただす裁判さえも時には無責任なものへと貶められます。憲法が国民主権を保障する日本でも、今なお冤罪が絶えないことを考えれば、古代社会で権力者たちが欲しいままにしてきた裁きはどれほど歪んだものであったことか。

「彼らはマムシの卵をかえし、くもの巣を織る」

これは、預言者が時代を糾弾する文明批評として読むべきでしょう。人々が良かれと願って丹精込めた労作から、いわばマムシを出現させます(子育て一つとっても、大事に育ててスポイルする)

科学の進歩には多大な貢献がありますが、その制御の難しさを今更のように考えさせられます(原子力の破壊力と制御の困難さ、地球環境破壊の深刻な問題、医科学の進歩と生命倫理・・・)

文明は人間に本当に貢献したのだろうか、それとも、人間と自然を荒廃させて終るのだろうか。バプテスマのヨハネが「マムシのすえたち」(マタイ3:7)と呼びかけた所以です。

「くもの巣は着物にならず」とは、今日の衣装を言い表していて妙です。衣装哲学という見地からすれば、人間の最初の労作は「いちじくの葉をつづり合わせた腰巻」(創世記3:7)でした。

しかし、神は「皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)これは、人の手によるものは一時しのぎにはなるが、恒久的なものではありえない事を語っています。このような洞察を知恵と言うのではないでしょうか。

科学技術が地球破壊の驚異であるように、文芸も人間を卑しめ、辱めていないだろうか。自分と周囲を傷つけて止まない現代文明は、狂気のゲラサ人と何処が違うのだろうか(マルコ5:1-5)

パウロは、これらの言葉をローマ人への手紙に引用しています「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない」(3:13-17)その根源的な理由を「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」と結んでいます。

9-11節には、上記の普遍的な罪の結果が語られています。

「公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む」

不幸なことですが、時々トンネルなどの落盤事故があります。交通機関のトンネルなら速やかに復旧が求められます。遮断されたままでは必要な物資の輸送もできません。

イスラエルは、この復旧工事に手を貸さないで僥倖の訪れるのを待つのに似ています。そして、嘆きの声をあげます「目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている」

Ⅱ罪の認識(12-15)

「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている」

苦しみ悩んだ末に到達したのが自分の罪の発見です。原因は「そむきの罪」にあると気付きます。これは不用意な失敗や、無知のもたらす罪とは異なります。まさしく、神への反逆です。不信仰、不従順、敵意です。それを知るに至りました。

認罪ほど人を打ちのめすものはありません。弁解もできず、他者への転化も出来ません。しかし、ここに至って希望が見えてきます。

パウロも「私は、なんという惨めな人間なのだろう」(ローマ7:24)という絶望の発見、絶望の淵に立って、初めて、イエス・キリストの救いを実感しました。即ち「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)と。

Ⅲ主ご自身の出番(15-21)

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた」

主は、執り成す者がいないのに驚かれます。イスラエルの危機には、モーセが破れ口に立ちました(詩篇106:23)しかし、今や、とりなす者がいません。見張り人がいないということは宗教的衰退です(エゼキエル22:30)

「そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた」

司法には弁護人がいて、告発者の怒りを宥めたり静めたりすることができますが、神の法廷では、主ご自身が告発者であり、弁護者であり、裁判官であり、贖い人です。主の罪に対する怒りは厳しいですが、哀れみも大きいので慰められます(Ⅱサムエル24:14)

パウロは、愛弟子テモテに「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです(Ⅰテモテ2:5)」と書いています。

「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた」

預言者は、救いをもたらす救い主を戦士の姿で描写しています。これは、パウロがエペソ人への手紙(小アジアの諸教会への回覧)のなかで借用・補完しています(エペソ6:11-19)

「主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている」

主が怒涛のように来られ、疾風を巻き起こされる描写です。疾風怒涛という言葉の派生源です。

息は(ルーアッハ)、時には風と訳され、また霊と訳される言葉です。

主の息(ルーアッハ・ヤーウェ)は、創世記1章2節の神の霊(ルーアッハ・エロヒーム)に与ったものです。意味は同じです。創世記では、万物創造の胎動として描かれています。イザヤ書では、救いのために立ち上がる戦士の武者震いの表現です。

最後に主の確認は「これは、彼らと結ぶわたしの契約である・・・あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と念を押される。

預言者イザヤの到達した確信「わたしの霊・・・今よりとこしえに離れない」これが、後の預言者たちを励ました事は計り知れません。エゼキエルは、バビロン捕囚を経験した預言者です。彼は、神の民を自認するイスラエルが、異邦人に蹂躙される屈辱的な体験の証人です。それにも拘わらず、彼の霊的な期待は不屈でした。イスラエルの回復を信じて、その最後の言葉を「主はそこにおられる(ヤーウェ・シャーマー)」と結んでいます。