イザヤ書58章

イザヤ58章        断食と安息日について

この章は、断食と安息日に関する偽善の問題を取り上げています。断食も安息日も、宗教の世界では、昔から敬虔の象徴として重要な役割を果たしてきたからです。

偽善、或いは偽善者という言葉の響きは禍々しいものですが、実際には、私たちの生活と心の中にまで巧みに住み込んでいるものです。

偽善は、言わば鬼子です。本来豊かな意味を持っていたものが、いつしか感動のない習慣的な行為に変節し、やがて私たちの精神を硬直させ、鋭敏で誠実な判断力を奪い取り、表面的な自己満足に陥り、やがて後戻りができない性格の一部のようになります。これは政財界で顕著にみられるものですが、残念ながら宗教の世界でも無縁ではありません。

祭壇に犠牲の動物が供えられ、香炉から薫香が立ち昇っていれば敬虔の証しと言えるでしょうか。むしろ、体裁の整っている所にこそ偽善の兆候を見なければなりません。

主イエスは「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」(マタイ23章)と、繰り返し声を上げてイスラエルの指導者たちを非難しました。パリサイ人にも善良な人はいました(ニコデモ、アリマタヤのヨセフ)が、主はパリサイ的偽善を見過ごしませんでした(ルカ12:1)

預言者は、人の心に深く棲んでいる偽善、当人さえうっかり見過ごしている隠れた罪・偽善の問題を暴き出しています。それが、断食や安息日遵守、或いは施しに関する問題です。

Ⅰ断食の実態

問題にされているのは、2節が証言するように「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる」人々です。

これは、少しも責められることではありません。しかし、敬虔な装いの背後に隠されているのは「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか」という功利主義です。これは見過ごしてはなりません。

これは、結局のところ行為義認・自己義認の考え方です。それは、信仰による義を変節させるものです。人が義とされるのは決して行為によるのではありません。もしそうなら、そこらにごろごろしている御利益宗教と何ら変るところがありません。聖なる神の御名を掲げる信仰者たちは、信仰の真髄を卑しめてはなりません。

ヨブは、悩みの淵で「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう」(13:15)と、不屈の希望を神に託しています。

エレミヤ哀歌は「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない」(3:25-31)と耐えます。

イスラエルは、義を求めてひたすらに断食をしているようですが、これこそ、パウロの嘆いた同胞の宗教的誤謬です(ローマ10:2-3)

イエス様の時代にも、祈りと断食と施しは盛んに行なわれていましたが、神にささげられた真の礼拝行為ではありませんでした(マタイ6:16-18)今日で言う“パフォーマンス”に過ぎません。

礼拝は、本来神にささげ、神に受け入れていただく行為ですが、周囲の人々へのアピールに変質しています。神の賞賛よりも人の賞賛の方が優先した結果です(ヨハネ5:44)

人は義とされるためにあらゆる努力を惜しまないのですが、結果的には自己満足の域を出ません。それでは神には届きません。それでも、自己義認に陥り、時には神をさえ不正だと決め付けて罪を増し加えていることに気付きません。

彼らは断食の日に食を断ち、香をささげるでしょう。しおらしく葦のように頭を垂れ、荒布をまとい灰を被ることも躊躇いません。しかし、その真相は、労働者を圧迫し争いと不法を憚りません。

預言者は「わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか」と、迫ります。

主の怒りを引き出しておいて「主に喜ばれる日」だと思い上がっている事は悲しいではないか。

Ⅱ主の求める断食

「わたしの好む断食」とは、極めて具体的、実践的に語られています。

「悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」と。

すなわち、悪の絆を解き、自由とすべての良いものを隣人と共有し、パンを与え、服を着せ、旅人をもてなし、肉親の世話をします。これこそ、敬虔の証しだと言うのです。

神は、アベルの叫びを聞かれました。主は、エジプトで奴隷のくびきに繋がれていたイスラエルの嘆きに耳を傾けました。主は、決して虐げられた者の叫びを聞き逃しません(申命記24:14-15)

主イエスも良いサマリヤ人の譬え話を語り(ルカ10:25-37)マタイ25章では、あわれみを語っています。正義は、日常生活の中で極めて具体的に求められています。勿論、行為が、人を義とするのではありません。キリストの贖いによって救われるのです。しかし、自分に委ねられたことを無責任に投げ出すことはできません。

使徒ヨハネは、言葉や口先で愛するのではないと警告しています(Ⅰヨハネ3:17-18)即ち、行為とは、本来、愛の結晶です。軽んじるわけにはいきません。しかし、行為は自己満足・自己義認に陥り易いものです。信仰と行為を調和することは大きな課題です。パウロはエペソ書で両者の関係を見事に調和させています(エペソ2:8-10、ヤコブ2:17)

ユダヤ社会にはコルバン(マルコ7:11)という言葉がありますが、主イエスはその偽善を見抜いておられました。パウロも、家族を顧みないのは不信者よりも悪いと主張します(Ⅰテモテ5:8)

「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで・・・あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる」

これは、義と栄光のサンド・ウィツチです(52:12)換言すると「わたしはここにいる」こうして主の臨在をはじめて、後ろめたくなく実感する事が出来ます。主との真実な交わりが始まります。

Ⅲ安息日に関して

安息日については、十戒の第四条に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8)と規定されていまする。それは、創造の秩序に基づいたものです。

この規定が徹底されるために、イスラエルの民は犠牲を払いました(民数記15:32)しかし、誤解してはなりません。安息日の精神は束縛ではなく慈悲です。そこには「七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである」(出エジプト23:12)と言われています。

安息日が破られていく背景には、有産階級による奴隷労働の使用などがありました。彼らは、もちろん安息日に仕事などしません。毎日が安息日です。しかし、安息日に奴隷たちを休ませる事を惜しんで、労働に駆り立てたのです。

また、商人たちにとって、安息日は魅力的な独占市場です。誰も店を開いていないのですから。このようにして、一部の利己的な者たちが端緒を開き、後はなし崩しにされます。

バビロン捕囚後、ネヘミヤは安息日問題に積極的・厳格に関わりました(10:31、13:15:21)しかし、力づくでやることは、必ず破綻をきたすものです。捕囚の帰還以後、イスラエルでは安息日を厳格に守るようになりました。しかし、イエス様の時代には、安息日律法は、ただただ人を拘束するものと成り果てていました。人を活かす筈の律法が人を拘束したのです。

主イエスは「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」(マルコ2:27-28)と言わなければならないほどでした。