イザヤ書57章

イザヤ研究57           神の御住まい

ボアネルゲ(雷の子の意・マルコ3:17)と綽名されたヨハネは“誰よりも主イエスに愛された”と自負し、キリストを熱愛して生きた男です。彼は「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(Ⅰヨハネ2:15-17)と書いています。

これは、愛に生きたヨハネにふさわしい言葉であり、究極の真理です。しかし、肉体を持って地上に生きる私たちは、この世の栄誉や権勢欲に常に誘われています。

狡猾なサタンはイエス様にも「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」(マタイ4:9)と挑みかけました。私たちを誘惑しない筈がありません。彼は、不義の報酬を掲げて私たちを揺さぶります。サタンの誘惑は熾烈で、振り払うのが容易ではありません。サタンは「光の天使に偽装する」(Ⅱコリント11:14)からです。

冒頭の1-2節は、そのような人の世の現実と、見逃してはならない神の正義を主張しています。ついでながら「まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる」という表現は興味深い。日本語の“畳の上で死ぬ”を思い出させます。

今日の私たちは、この言葉を単純にそのまま理解する事はできません。しかし、旧約時代の人々にとっては、公平な神を仰がせる慰めの言葉であったと思われます。

Ⅰ無知で傲慢な人の所業

「あなたがた、女卜者の子ら、姦夫と遊女のすえよ。ここに近寄れ」

これは、凄まじい呼びかけです。神に対して誠実でない者たちは、神との愛の絆を踏みにじっているのですから姦通者に等しく、偶像礼拝する者たちも同じです。

「あなたがたは、だれをからかい、だれに向かって口を大きく開いて、舌を出すのか」

大概の人は、チャンスさえあれば豪語したがります。しかし、それは、自分の無知を言い表すばかりです。時には、それを軽率な戯れとして片付けることのできない場合があります。本人が意図していなくても、神を冒涜する事があるからである。

私たちは、人が犯す罪の行為や言葉について責任を問われるのは、真っ先に神の御前であることを忘れてはなりません。すべての事は神の前での営みですから。

この点で、エジプトに売られたヨセフは毅然としていました。彼は罪の誘いを受けた時「どうしてそのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(創世記39:9)と言って退け、神の前に生きる者の倫理基準を明解に述べています。

何事でも相対的に考えたがる今日では、このような考え方は衰退しているように見うけられますが、聖書の基準は不変です。その原理・原則は失われたわけではありません。ただ、片隅に押しやられているのは事実です。侮る事はできません「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)

「あなたがたは、樫の木の間や、すべての生い茂る木の下で、身を焦がし・・・」

その昔、アブラハム物語では「樫の木の下」は家族の交わりの場であり、神を礼拝する場であり、墓所でもありました(創世記12:6、13:18、14:13、18:1、35:8)それは、時代が流れていつしか偶像礼拝の場に変わっています(エレミヤ2:20、エゼキエル6:13)

神と人の関係は愛の契約に結ばれているのですから、神への誠実な愛を偶像に向けることは霊的姦淫と言うべきものです。偶像礼拝は必ず淫行を伴い、礼拝の場が淫らな場となるのを避けらません。また、偶像礼拝の情熱は、人身御供のような狂気に変わります(最近でも、得体の知れない新興宗教内で殺人が繰り返されている)

正しい判断力を失うと無残な結果を生じます。彼らは「岩のはざまで子どもをほふって」います。

5-10節には、その狂気、献身ぶり、むごたらしさ、その情熱の凄まじさ、言葉で表現するのを躊躇うほどの淫らな行為、そして、疲れを知らないのであるから手に余る(疲れを知らないと言えば、しばらく前に“騒音おばさん”が話題になった。その精力的なことに圧倒される)

神が忍耐強く沈黙しておられる時、愚かな者たちは“自分たちが是認されている”と誤解します。“神が黙っているのだから、いいんじゃないか”と言う具合です。度し難いものです。

「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ」

私たちが「御国を来たらせたまえ」と祈るのは「私たちの国籍が天にある」からです。しかし、地上の生活で虐げられ、なおざりにされてきた者たちへの慰めは「地を受け継ぐ」ことで表現されています(詩篇37:9,11,22,29)

主イエスもこれを引き継いで「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」(マタイ5:4)と、お語りになりました。地上のいかなる権威権勢も神の意思を妨げることはできません。

Ⅱ神の御住まい

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み・・・わたしは、高く聖なる所に住み」

永遠の神が「聖なる所に住む」のは当然の事ですが、預言者は神の聖性を具体的な日常表現で明らかにしています。即ち「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」と。

預言者は、6章の経験によって神の御住まいの尊厳を熟知していました。しかし、ここに至って、預言者の神認識は大きく飛躍したと言えるのではないでしょうか。彼は「心砕かれて、へりくだった人と共に住む」神を発見します(詩篇51:17、ミカ6:8)

神を一面的に理解するのは不十分です。無限の神の広がりを見せていただきたいものです。パウロは「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペソ3:17-19)

“いつくしみ深き友なるイエス”は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン」

以下に、神が好んで住まわれる別荘を三つほど紹介します。いつでも誰にでも解放されています。

神の子らの賛美の中に(詩篇22:3)

主の御名によって集まる祈りの場に(マタイ18:20)

啓示された神の言葉の中に(ヨハネ5:39)

Ⅲ慈悲と警告

「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない」

それは「わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから」です。ここで「霊、たましい」と言われているのは、神が創造において人に注ぎ込んだものです(創世記2:7)

人は、自分の罪の責めを負わなければならないが、罪の告白に至るのは容易ではありません。しかし、あわれみ深い神には望みがあります。

「わたしは彼の道をみたが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう」と主は言われます。主は真に慈悲深い方です(スプランクニゾマイ)

「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」

「くちびるの実」とは、単なる言の葉ではない。神をたたえる賛美、或いは、神に心の悩みを包まず述べる悔い改め(告白)を意味しています。

54章10節でも、愛を基とした平安の契約に言及がありました「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」

これと対照的に「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず・・・悪者どもには平安がない」と結ばれています。