イザヤ書56章

イザヤ56     わが家はすべての民の祈りの家

この章には、時代の価値概念を覆すような言葉がみられる。例えば、外国人や宦官がそれである。価値観などと言うと聞こえは良いが、実際には、多くの場合、下水道管にこびりつく水垢のようなものである。長い間放置しておいたので、何の違和感もなく受け入れているが、遅かれ早かれ破綻に到達することが避けられない。

1500年も連綿と続いてきたキリストの教会も例外ではなかった。宗教改革の名のもとで宗教戦争という泥沼に陥り、惨めな歴史を重ねて来た。その間、聖書学者や神学者がいなかったわけではない。そして、教会の枝ぶり(広範囲の支配と権威構造の構築)は良くなったが、幹の空洞化を避けることはできなかった。

身近なところでは、日韓や日中の歴史的経緯のなかにも同様な流れがあることを否めない。古代史まで遡ると、両国はわが国よりも文明の先進国であった。文字一つとっても、計り知れない恩恵を受けている。しかし、力関係が逆転した時代もある。それが、謂れのない偏見や蔑視を生み出した不幸な歴史を形成してきた。

神は、イスラエルが「さすらいのアラム人」(申命記6:5)にすぎなかった時、これをあわれみ導き出された。イスラエルには、エジプトの奴隷という悲劇的な歴史もあった。しかし、人々の心から離れない思いは、ダビデ・ソロモン時代の栄光である。

過去の華やかな時代の思い出は、人々を謙虚にするよりも、うぬぼれさせる傾向が大きいらしい。それ故、預言者はすでに警告した「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを」(51:1-2)と。

このたぐいの自己反省は、繰り返しなされなければならないであろう。

Ⅰ「わたしの義が現われるのも近い」

公正や正義は尊ばれなければならない。しかし、罪深い人間の世界では、常に蔑ろにされてきた。少し前の時代の預言者ミカも「主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)と叫んでいる。

神が人に求めるのは、外見を装う見せ掛けの敬虔ではない。人格的誠実さが求められている。このような言葉は、今に始まったわけではないが、預言者には緊迫感がある、それが「わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近い」という表現に表れている。

パウロは、ローマの獄中に捕らわれていた時、単なる緊張の表現ではなく、希望の表現にまで昇華した。即ち「主は近いのです」(ピリピ4:5)と。

主の救いとは、主の臨在です。主に近くある者は救いの中にあると言えます。しかし、主に会う備えが整っていない者には、主の義の出現は恐るべき日です。

預言者マラキは「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない・・・ しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある」(マラキ4:1-2)と。

Ⅱ幸いなことよ

詩篇1篇には「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」という、有名な幸福論がある。

イザヤの言葉は、その広さ深さにおいて、主イエスの幸福論(山上の垂訓)に近づいていると言えるのではないだろうか。なぜなら、これは内輪の話ではない。その対象は、平素は歯牙にもかけられない、外国人や宦官に言及されているのです。

「安息日を守る」或るいは「主に連なる」ことは、ユダヤ人社会の特権と考えてきた傾向がある。しかし、ここでは、初めから疎外されていた人々、一人前に扱われていなかった人々である外国人や宦官に、幸いの門戸が開かれているのである。幾度も繰り返してきたことであるが、預言者の目とはこのようなものでなければならない。自分の国を愛する事は大切な徳の一つであるが、偏狭なナショナリズムは手が付けられない。

ここで、安息日が取り上げられているのは何故であろうか。創世記を読むと、神の創造は安息を目指していたことが明らかである。それは堕罪以前の恩恵と秩序であり、それは、造られたものすべてに及ぶ祝福でもある(エペソ2:11-)

宦官も言ってはならない「ああ、私は枯れ木だ」と。

宦官にも望みが開かれている。これは、イスラエル至上主義者にはショッキングな言葉であったに違いない。宦官とは去勢されて後宮に仕える者のこと。これは宮刑に処せられた者を使用したことに始まり、後には志願者もあったと言われる。王の信頼や寵愛を受ければ、絶大な権力を持つことになり、それ故に蔑視の対象ともなった。しかし、誰も神の恩恵を閉ざすことはできない。私たちはエチオピアの宦官がピリポによって導かれた事を知っている(使徒8:27)

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」

エルサレム神殿には、婦人の庭、異邦人の庭という呼称があった。それは“そこまで”という制約を告げるものである。それは人が作った障壁である。

主イエスは、神殿が尊重されているように見せかけられて、その実、姦しい商売の場になっていることに対して「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした」(ルカ19:46、マタイ21:13)と叱責された。

祈りの家を建設するのは、神の民であるが、その生命を破壊するのも神の民であるとは情けない。精神の硬直・疲労と言うべきものであろうか。敬虔な礼拝に始まり、いつしか習慣的な自己満足の礼拝に陥り、やがて、自己の利益を誘導するものへと変質し、ついに偶像礼拝に成り下がる。このパターンは、宗教だけでなく、あらゆる良い志の前方に待ち受けている落とし穴ではないだろうか。油断することなく心を守りたい(箴言4:23)

Ⅲ度し難い現実

最後の数節は、イスラエルの現状を描写している。

9節は、気前のよい饗宴が開かれている事を語っているのではない。痛烈な皮肉である。

町を見守る筈の見張り人が、無知で怠慢を重ね、その責任をわきまえず、その責任を果たせなくなっている無残な姿を描いているのである。町は隙だらけですから、野のすべての獣、林の中のすべての獣が食べたい放題、やりたい放題に荒らしまわることを揶揄している。

私たちは、先進文明国を自負していたが、社会保険庁の怠慢と私利私欲には呆然とさせられた。そして、その類は、地方自治体の窓口まで冒しつづけて来た実体を知らされた。言葉もない。しかし、今日に始まったことでないのは明らかである「ひとり残らず自分の利得に向かって行く」

「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない」

主イエスが語られた例え話に出てくる、ある金持ち(極楽トンボ)の戯言が思い出されるので引用してみる「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」(ルカ12:19)

主は言われた「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。少年親鸞は、出家を決意した夜「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠んで師を驚かせたと言われる。