イザヤ55 とこしえの愛の契約
預言者はこの章で、神がイスラエルと結んでくださった契約を思い出させます。イスラエルは契約の民と呼ばれているが、実際には、契約の重さや意義を熟知しているとは言えません。何故ならば、彼ら自身が、神との契約を誠実に履行してはいないからです。
言うまでもないことですが、契約は両者の誠実によって保たれます。自分が不誠実な時に神の誠実を求めることはできません。その結果、契約は何の力にも慰めにも成らなくなっています。
しかし、預言者は神との契約を「とこしえの契約・・・・愛の契約」と呼んで、その永続性を喚起し、その関係が利害ではなく愛に基づいている事を指摘します。人間相互の契約ならば、一方の不誠実によって契約関係は破綻し、解消するほかありません。
しかし、神の永遠の契約は破綻・解消という道筋を辿りません。神は不義を正して再建の道を選びます。因みにヘブル語では、契約に以下の動詞が用いられます「建てる(クーム)切る(カーラト)与える(ナータン)」(創世記9:9,11、15:18、17:2)
パウロは、神の誠実について「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13)と述べています。
Ⅰ渇いている者は
「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」(ヨハネ7:37)
「ああ」は、災いに通じる言葉です。渇いている状態が災いであり、同時に預言者の痛みと哀れみを引き起こしています。自業自得ではありますが、預言者は彼らに呼びかけています。
主イエスは、サマリヤの女性に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13-14)と語りかけました。
また、祭りの最終日(後の祭り)に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)と招かれました。
「金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ」
この描写は、市場の盛んな呼び声を連想させます。しかし、ただ一点で異なる。即ち「金を払わないで・・・代価を払わないで」と呼びかけます。金持ちは何時でも何処でも優先されています。市場経済とは、金が羽振りを利かせる社会です。しかし、神の国では、いと小さい者が大切にされる。これは、ルール破りではありません。代価を肩代わりしてくださる贖罪の先振れです(ローマ3:24)
「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか」
この段落は水や食物で語られていますが、それは比喩であって、人を真に生かすいのちの糧について語られているのは明らかです。
人が懸命に求めてきたものとは何であったのか、私たちには良く分かります。高度経済成長の波に乗って、戦後の日本は見事に再建されたように見えました。奇跡的だとも言われます。しかし、私たちが作り上げた国と国民の価値観はどうなったでしょうか。本当に健全な社会が形成されたのでしょうか。どこかで目標を見誤らなかったでしょうか。大切なものを見失っていないか、体は大きくなったが魂はやせ衰え、国家は強大になったが、品格は害われている現実を見逃してはなりません。
「わたしに聞き従い」(ヨハネ6:35,37)
人を生かすものと、人を滅ぼすものとを区別する判別力を身につける必要があります。これまで、周囲に湧き起こる新しい声や、耳さわりの良い声に耳を傾けてきたとしても、今は主に帰り、主の永遠に不滅な神の言葉に帰らなければなりません(40:6-8)
それは、イスラエルの契約に己を引き戻すことです。その契約は「とこしえの契約・・・愛の契約」と呼ばれています。これは、イスラエルを生かす命綱です。
Ⅱ主を求めよ。お会いできる間に
「お会いできる間に」(ホセア5:6)光のある間に(ヨハネ12:35)
預言者には緊迫感があります。チャンスが過ぎ去る事を危惧しています“いつまでも有ると思うな親と金”と言いますが、人は怠惰なものです。大切なものほど甘えきっています。そして、取り返しのつかない事態を招くのではありませんか。預言者は、ためらう者たちに決断を促しています。
「近くにおられるうちに(詩篇10:1、22:1、73:27)
主は遠ざかるのだろうか。エゼキエルは、主の霊が未練を残しつつエルサレム神殿を去る姿を描写しています(エゼキエル)
「おのれの道を捨て」
人は、神を求めるときにも、しばしば自己流を押し通します。神のみ前に出るときは虚心坦懐でなければなりません。器は空っぽが良いのです。
主イエスは、弟子たちに向かって「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)と求められました。年を重ね経験を積むほどに捨て難くなるのは自分自身です。先の約束に寄ると、主は背負ってくださる筈です。幼子のような信頼に満ちた平安に与りたいものです。
「主に帰れ」
これは、悔い改めと同義です。主は心の謙った者たちを粗末には扱いません(57:15)
“窮鳥懐に入る”と言いますが、主は帰って来る者をあわれみ、ゆるしてくださいます。神を、私たちの狭い了見で計ってはなりません。神は無限で、計り知れない奥行きを持っておられます。
イザヤの表現によれば「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」
パウロも「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)と詠嘆しています。
Ⅲ主の配剤
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える」
預言者は前の節で、神と人を天と地の位置の差で語りました。天と地は決して交わりませんが、この両者を無縁のものとはせず、自然の理を用いて見事に統合して語ります。
物理学には質量不変の法則(核物理学では通用しない)がありますが、預言者の知識は脅威的です。創造者である神は、地球の循環を用いて、人間の生存を可能にしています。そこでは、何一つ無駄なものはなく、失われるものもありません。まさに不変の法則が生ています。
「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」
人には徒労があり、から回りという空しい言葉がありますが、それは神の秩序からはみ出しているからではないでしょうか。
創造者を覚え、その素晴らしい秩序を尊重し、契約によって与えられた絆を強固にし、生きている喜びを豊かにしたいものです。
「山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」
「いばら(創世記3:18)に代わりもみの木、おどろに代わりミルトス」
今日、遅まきながら、地球環境の改善の声が上がっています。神が人間に備えてくださった大地に感謝して、優しく扱う事を学ぶなら、まだ希望はあります。しかし、目覚めなければ、自らを滅ぼすに違いありません。