イザヤ書54章

イザヤ54         荒廃の中で復権の約束

前章では、秘められた神の奥義、しもべの受難が語られた。それは、本来、罪深い人間が期待できるような類のものではない。創造者なる神だけが、見せてくださる究極の救いの奥義である。

これは、時満ちて神の御子が受肉し、十字架上に死なれて三日目に復活されるまで、人間の理解を越えた啓示でした。しかし、預言者には、朧ながら救いの真相が見えてきたのです。雲間を破る一条の光の訪れです。ここに希望が開かれます。

もし、このような贖いの思想を受け入れることが出来るなら、それはさらに無限に発展していく可能性を帯びています。ここでは、これまで“もう遅すぎる、最早取り返しがつかない”と言って門前払いされていた者も、再生の希望を抱くことが許されるのです。

預言者の確信は、いよいよ大胆不敵さを増して来る。語る言葉も無制限に羽ばたく。

序「子を生まない不妊の女よ。喜び歌え」

「子を生まない不妊の女」は、古来、辱められ侮られてきた。アブラハムの妻サラ、イサクの妻リベカ、ヤコブの妻ラケル、そしてハンナも不妊の嘆きを知っていた(Ⅰサムエル1:5-7)

不妊蔑視は聖書の思想ではない。イスラエルを取り囲む古代社会の価値観を示しているのである。そして、父祖たちも、そのような受け止め方を引きずっていた。しかし、神は、彼女たちをいつくしみ深く扱い、その恥を拭い去ってくださった。

「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」

これは、おそらく、不妊の女を侮り、子ども数を誇りながら、肝心な夫との関係を破綻させている者たちに内省を与えるものであろう。子どもは神の恩恵に違いないが、神の祝福は、単純に子どもの数で計られるようなものではない(しかし、世間では相変わらずそのような評価がされている)

預言者は、ここで神による逆転の構図を語っているのではないだろうか。

Ⅰ繁栄の約束

「あなたの天幕の場所を広げ」

ここで、生活圏・活動圏・支配領域を、惜しみなく無制限に広げるようにと励ます(イザヤ33:20)実は、これは既にアブラハムに約束されたものである(東西南北へ、創世記13:14)

「やもめ時代のそしりを、もう思い出さない」

この表現は、私たちにルツの姿を思い出させる。彼女はたぐい稀な女性であったが、ボアズの厚意を当てにしなければ生きられない状況にあった。神の恵は彼女を引き上げてくださったが、彼女が通った道は茨の道であったことを見過ごせない。

「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている」

ルツはボアズという誠実な男に出会ったが、イスラエルの配偶者は比類なき万軍の主である。この表現は、同時代の預言者たちのことばによって理解を深められる。

神とイスラエルの関係は創造者と被造物である。しかし、預言者たちは、その愛の絆を夫と妻と表現して憚らない(ホセアに顕著、後のエレミヤもエゼキエルも)

残念ながら、この関係は健全に保たれてきたとは言い難い。イスラエルは離縁された妻、或いは姦通して飛び出した女として描かれてきた。それでも神の御心は変わらないことに気付いている。それ故「若い時の妻をどうして見捨てられようか」と心情を吐露する。

「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」

エレミヤの有名な言葉は、イザヤのコピーである。即ち「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31:3)

これまで、神と人との関係は相互的に語られてきた。言わば、因果応報である。しかし、上記の言葉は、何もかも焼き尽くされ失われた後にも存在するものを明らかにしている。神の愛は永遠で、尽きることがなく、新しい希望を育むものです。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」

山は不動のシンボル(詩篇121:1)だが、地殻の変動があれば、山々も崩れ去る。預言者は、極限の状況でも変らず過ぎ去らないものとして、神の愛を語り、それが平安の根拠だと示す。

主イエスは、十字架に掛かられる前夜、この言葉を反復するようにして語られた「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27、16:33)と。

主が復活されて弟子たちを訪れた時の第一声は「平安があなたがたにあるように」であり、さらに繰り返して「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:19,21)と語られた。

山が動いても動かない平安、約束の賜物を空しくしてはならない。

Ⅱ主のしもべ達の受け継ぐ分

「見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある」

預言者は宝石収集家ではない。宝石に心を奪われているわけではない。これは、平安を得がたい宝石を比ゆ的に取り上げて描写したものです。ヨハネが天国を描写するときも(黙示録21:11-21)このような言葉に触発されて想像力を広げたのであろう。

「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ」

不正不義が横行している今日、義が求められる。イスラエルでは、国家の根幹を成すものとして正義を尊んだ。箴言は「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる」(14:34)という。

しかし、今日、有名メーカーでも利益追求が優先され、長年培ってきて得た名声は汚辱に塗れている(雪印、ペコちゃんの不二家、白い恋人も薄汚い、ミートホープ、赤福・・・)

「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」

この世では、裁き、裁かれることに終わりがない。うっかり正義を振りかざすと、薮蛇になる恐れがある“物言えば唇寒し”と言われる所以である。みな脛に傷を持つということか。

相対的な世界はともかく、神の民が試みられるのは主の前である。ここでは誤魔化しが効かない。パウロは、自己の内にある罪のために誰よりも苦しんだ「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)と悩み抜いた。

しかし、このパウロが一転して「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)と、真に大胆不敵な言葉を発する。そして、ローマ書8章は、一気呵成に凱歌の頂点に駆け上る。以下に抜書きしてみる。

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8:2)

「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」(8:9)

「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(8:26)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(8:28)

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(8:31)

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(8:38-39)