イザヤ書52章

イザヤ52        あなたの神が王となる

信仰に堅く立つ預言者には、いかなる時にも神の主権が見えている。

現実には、エルサレムが蹂躙され、灰燼に帰して、指導者も民衆も絶望的な嘆きを抱き、望みを持つことさえ忘れ果てた。その上、彼らの多くは“神はどこにおられるのか”と、主に対しても懐疑的である。それゆえ、預言者は「わたしが主(存在の根源)である」と繰り返した。

この章における神の人のメッセージは「あなたの神が王となる」に凝縮している。華々しい戴冠式が営まれる。それには、様々な準備が必要となるであろう

Ⅰ美しい衣を着よ

「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ」

シオンに外敵が攻め入り、エルサレムが無割礼の者に踏みにじられるのを許したのは神であった。それは避けられないことであった。罪が見過ごされてはならないからである。しかし、神ご自身は断腸の思いであった(イザヤ16:11、エレミヤ31:20)

苦難が続くと、人は絶望的になり、無気力の中に逃げ込む傾向がある。起きているのだか寝ているのだか、生きているのだか死んでいるのだか知れないほど茫然自失する。

しかし、今は眠りから覚めるべき時です。ここでも「さめよ。さめよ」と呼びかけられている。イエス様も使徒たちも「目を覚ましていなさい」(マタイ25:13、Ⅰペテロ5:8)と言う警告を、幾度も繰り返しておられる

王を迎えるのであるから、それに相応しい装いを整えるべきです。それが「美しい衣を着よ」という勧告である。装いを一新することで神に会う備えを語る(衣服のモチーフ)

しかし、預言者は人間の義について、衣装の比喩を用い「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」(64:6)と述べる。美しい衣をどこで手に入れるのか。未だ見えてこない。ただ「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される」という言葉が暗示的ではないか。

イエス様は、王子の結婚披露宴に呼ばれた人々の衣装について語っている(マタイ22:2-14)このたとえ話は二段構えである。前半は招待に価しない人々の無礼な振る舞い、後半は折角のチャンスを軽んじた人々。

王は礼服を着用しない人に激怒したが、ここには私たちの知らない背景がある。Ⅱ列王10:22を引用すると、礼服が借用される前例が記されている。これなら事情が理解できるであろう。(今日でも、世界の首脳会議がアジアで開催される時など、出席者はみな、その国の民族衣装を身につけて勢ぞろいする。これは用意されたものである)

エペソ書4:22-24、コロサイ3:9-16などを開くと、新しい人が新しい衣装で語られている。それは、救い主から賜るお仕着せです。最早裸でいるわけにはいきません。ラオデキヤの教会は「白い衣を買いなさい」(黙示録3:18)と求められています。

Ⅱあなたの神が王となる

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ」

今日は、些か情報過多のきらいがある。知る権利を求めてきた結果であろうか。しかし、真実が明らかにされるまで、人の心は不安を抱き続ける。今日のマラソンの起源は、ギリシャ軍がマラトンの戦いに勝利したことをアテネに報じた戦士を記念するものと言われる。

足は汚れの象徴である。イエス様は「全身がきよい」と言いつつも、弟子の足を洗われた。命がけで「良い知らせ」を伝えた者の足は無残なほど汚れ傷ついているに違いない。しかし、それを目にする者は、頬ずりしたいほどの感動を呼び起こされるであろう(箴言25:25)

朗報を山々、町々に響かせる足音は美しい。分けても、ここで「良い知らせ」とは、平和を告げ、幸いを伝え、救いを告げ、「あなたの神が王となる」との宣言です。

7-10節は「良い知らせ」が伝えられる日の鮮やかな展開を述べている。

「主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見る」

「主がその民を慰め、エルサレムを贖われた」

「地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」

パウロは、ローマ書で救いの確信と宣教の責任を論じた時、この言葉を引用している(ローマ10:15)イザヤの預言が、自分の時代に実現している事を見せられた証人として、どんなに心を熱くしたことであろう。

Ⅲ主の民の聖別

聖別とは、神の専有物として分離されることである。それは、自ずから清さと不可分の関係にある。

「去れよ。去れよ。そこを出よ」

「そこ」が明白ではない。しかし「去れよ。去れよ」という言葉は、歴史的表現である。

神は、アブラハムをメソポタミヤの地から呼び出されました。イエス様も弟子たちに「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました」(ヨハネ17:6)と言われ「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」(17:16-19)と祈られました。

弟子達の立場は「世から選び出され・・・世に遣わされ」と、デリケートです。弟子たちは、この世にありながら、最早この世のものではありません。主によって世から聖別されたものです。ですから「汚れたものに触れるな」と、慎み深くあることが求められる。

「汚れ」とは何か。おそらく、使徒10章の汚れから理解するのが最善であろう。そこでは、ギリシャ語コイノス(普通の、一般的なの意。即ち特別に限定されていないものを指す)

ここでは、行動原理として「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」と助言されている。

主が初めであり、終わりであるとは、黙示録に繰り返される(41:4,44:6,48:12)

顧ると、出エジプトの大事件も、白昼堂々とパロの前を脱出した。あわてて飛び出したのではない。追い立てられて逃げ出したのでもない。

この恩恵をパウロは体験している。彼は証言する「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(Ⅱコリント5:8-10)と。

Ⅳ主のしもべの風貌

この部分は53章と一緒に扱うのが良いと思う。しかし、導入として読んでみたい。

「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」(ピリピ2:11)これは、主のしもべの究極的な栄光を叙述しているが、そこに至る道程は並大抵ではない。道は一歩一歩辿らなければならない。ゴールが見えているので耐えられる。

「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」

預言者は、しもべのどんな姿を見せられたのであろうか。本来、栄光の王たるべきお方が、侮られて奴隷の処遇を受ける光景を見ている。決して相容れない筈の両極端にあるものが混在している不思議に圧倒されたであろう。