イザヤ書51章

イザヤ51章       義を追い求める者

51章を一読して、真っ先に関心を惹かれるのは「義」という表現である。イザヤ書は、エレミヤ書やエゼキエル書に比べると「義、正義、公義」という言葉の頻度が多い。三語合せて比較すると、イザヤが68回、エレミヤガ22回、エゼキエルが19回使用している(「義」にだけ限定するならば、イザヤが32回、エレミヤが1回、エゼキエルが3回)

イザヤ書の中でも、51章における「義」の頻度は断然多い(平均の10倍)もちろん、言葉の頻度だけで論じることはできないが、この章で用いられている「義」の役割が重いことは歴然としている。

イスラエルの箴言は「義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る」(11:19)「主は悪者の行ないを忌みきらい、義を追い求める者を愛する」(15:9)と言いならしている。

Ⅰ義を追い求める者

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け」

先ず、呼びかけは「義を追い求める者」である。それは重ねて言い換えると「主を尋ね求める者」でもある。即ち、義の追求とは、主を尋ね求めることに他ならない。

ついでに申し上げると、この章では、義と主ばかりでなく、義と救いも同意語のように取り扱われている(1,5,6,8)それゆえ、救いとは不義の世界の只中にあって義を求めることであり、主だけが義の本源であることを銘記しなければならない。

主イエスは、山上の説教で「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい」(マタイ6:33)と言われた。しかし、この地上にあっては「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」ということに最大の関心が払われ、必ずしも「神の国とその義」が優先されてはいない。

時には、主に対して熱心な者たちが「義」を追求する。その姿は真に潔くみえる。しかし、人間の情熱は、しばしば性急になりがちである。時代の不義の壁は厚くてなかなか希望が見えてこないと、その心が逸り失望落胆に陥ることもある。

ヤコブは「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1:20)と警告している。ここで言う「人の怒り」とは、神への熱心や義憤のことでしょう。元来ヤコブは、行為による義に熱心な人であるが、神の義の実現を軽はずみに扱ってはならないと警告している。

預言者は、義の歴史的な背景を語ることによって、義の追求を過たないように配慮する。それで「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」と、足元から語る。

預言者は、先祖アブラハムとサラにまで遡って、神の祝福が真実な事を想起させる。アブラハムがメソポタミアの偶像礼拝者の中に生まれ育ったことは明白です(ヨシュア24:2)彼が故郷を出立したとき、彼には、確たる勝算があったわけではなかった。彼はまさしく「さすらいのアラム人」(申命記26:5)に過ぎなかったのである。

しかし、アブラハムは懸命に主に従う道を辿ってきた。それにも拘らず、彼の人間性の弱さは様々な失敗を避けることができなかった。けれども、主に信頼することにおいては、ひた向きであった。彼は神を信じて、その信仰を義とされたのである(創世記15:6)

パウロはアブラハムの信仰を「彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」(ローマ4:17-18)と描写している。その信仰の報酬として彼は義とされた。信仰義認と言われる所以である。

神の祝福の約束は違わず、一人の人アブラハムから増え広がってイスラエル民族が生れた。それ故この呼びかけは、信頼を回復するための慈しみ深い呼びかけです。

5節では「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている」と言われる。

このような表現は、新約聖書に見られる「主は近い」「きょう、この家に救いが来た」という表現の基礎となるものです。

さらに、義と救いの対比は「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけない」と述べられ、さらに「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる」と繰り返され「義と救い」を倒置して述べている。

Ⅱ神の恵みに応えて

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ」

この表現は、イザヤ書にだけ見られる(51:9,17,52:1)共同訳は「奮い立て」「目覚めよ」と訳出している。

ところで、この呼びかけは誰になされているのか。9節に「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか」10節に「海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか」と言われている。

普通の文脈では「さめよ」とか「目覚めよ」と呼びかけられるのは、睡魔に襲われがちな私たちである。しかし、ここでは、力ある「主の御腕」に期待しているのである。詩篇に見られる「主よ。立ち上がってください」という祈りの叫びに通じるものです。

これは、預言者の神を賛美する歌である。すると、前段で焦燥に駆られたのは、民衆ではなく預言者自身だったのかもしれない。

ラハブは海に住む巨獣に与えられた名前ではあるが、ここでは比ゆ的にエジプトのことです(30:7)出エジプトの歴史的な勝利を想起して、打ちしおれていた者が勇気百倍します。

「楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」

このような信仰の期待が広がる時、たとい現状がどのようであっても、平安を取り戻し、希望が胸を躍らせるのであろう。聖歌の498番“歌いつつ歩まん”の2節に“恐れはかわりて祈りとなり、嘆きはかわりて歌となりぬ”とある如く。

Ⅲ再び聞け

「このわたしが、あなたがたを慰める」

慰めに満ちた神がおられることを感謝しよう。傷ついている者の心には、人の言葉では届かない深みがある(人の慰めが不要だというのではない)しかし、あわれみに満ちた神が届いてくださることを信頼するのが救いです。

パウロはコリント人への第二の手紙の冒頭「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」と書いて、慰めの順路を明らかにしました。今、私たちは聖霊が慰め主であると知っていまする。

最後に17、22節の杯の比喩について考えてみる。

「あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」

「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない」

単純素朴には、杯は友好的な交わりと祝福の象徴であった(詩篇16:5、23:5)と考えられる。

しかし、預言者の言葉には「憤りの杯」(イザヤ51:17:22)「怒りの杯」(エレミヤ25:15,49:12)「よろめかす杯」(イザヤ51:17,22、ゼカリヤ12:2)という表現が目立つ。

杯は神の正義の怒りを象徴する。贖い主はこの苦き杯を満ち足りるほどに飲むことが求められる。それが主の覚悟の杯(ヨハネ18:11)であり、弟子たちも避けてはならない杯だ(マタイ20:22-23)この杯がどんなに厳しく苦いものであるかは、ゲッセマネの祈りに明らかである(マタイ26:39,42)

主イエスが新しい契約を結ぶに当り、パンと杯を用いられたことは意義深い。かつての神の怒りや憤りは過ぎ去り、主と一つにされる交わりの杯である。もっと言えば、主の血に与るもの、主のいのちを共有し、主のいのちによって生かされるしるしである。