イザヤ50 不信の民と信頼するしもべ
何か事が発生すると、真っ先に自分の責任を回避して安全圏に逃れ、厚かましくも他人に責任を転嫁する人々がいる。その結果、秘書や妻、或いは部下たちが責任を負わされるケースは少なくない。(大事件が起こると、一言も弁明せずに自殺する部下がいる)誰にも責任を押し付けられない時などは、人は忌々しげに“神も仏もあるものか”と吐き出す。
50章の背景には、自己の責任を省みないで、神を侮り呪う者たちが念頭にあるようだ。
Ⅰ主の主張
「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出した・・・わたしがあなたがたを売ったというのなら。あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ」
平素、信仰・信頼は欠片もないが、一度窮状に陥ると「神に見捨てられた、主に忘れられた」と喚きだすのがイスラエルの常である(49:14)被害妄想も甚だしいと言わざるを得ない。
イスラエルは、自分たちの境遇を離婚された家庭の子どもたちに等しいと訴えたのであろう。今日でも母子家庭の厳しさは変らないが、古代社会では離縁されることが侮辱であり(近代まで続いた)差別などのもっともらしい口実になった。ここでも、巧みに責任はすり抜けている。離縁の当事者ではなく、頑是無い子どもだと言うのである。
「母親の離婚状」について瞥見しておきたい。
マタイ19章3-10節に、意地の悪いパリサイ人が、離婚の是非(合法性)を問う描写がある。主は「人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ」と創造者の意志を明らかにした。同時に罪深い人間の営みの限界を認めて「あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです」と言われた。実際、世の中には、離婚よりも酷い結婚生活がある。しかし、何でも自己本位に考える人々は「結婚しないほうがましです」と暴言を吐く。このように、神の御心は踏みにじられている。
「見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られた」と言って、預言者は、責任は他ならぬ自分にある事を喚起する。
「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか」
この言葉は、59章1-2節に「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と繰り返される。
預言者は、主がイスラエルを懇ろに取り扱われた事を歴史的事実にもとづいて論証する。
「海を干上がらせ」とは、紅海を渡り(出エジプト14:21-22)雨季のヨルダン川を渡ったときの事を思い出させる(ヨシュア4:7)
また「わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする」も、出エジプトの出来事を想い起させる(出エジプト10:22)
Ⅱ主のしもべに求められるもの
「神である主は、私に弟子の舌を与え」
弟子という語は、旧約聖書では珍しい(8:16、Ⅰ歴代誌25:8)訳語も「生徒」「初心者」「教えを受けた者」などとされている。新約聖書の弟子は「学び取る者」の意である。
いずれにしても、主のしもべに言葉を与えてくださるのは主である。その意図は「疲れた者をことばで励ます」ことにある(が、言葉が粗末に扱われている)
もちろん、主の言葉は「生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する」(ヘブル4:12)が、疲れた者には励ましをもたらすものである。
詩篇119編は、御言葉の慰めを豊かな言葉で讃えている「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(119:103)など、数限りない。
地上を歩まれた主イエスに、厳しい言葉がなかったわけではない。イエス様はヘロデ王を「あの狐」(ルカ13:32)と呼ばれたことがある。また、イスラエルの指導者たちを「偽善の律法学者、パリサイ人」(マタイ23章で繰り返し)と名指しておられる。
しかし、疲れ果てた人、あわれみを請う者には、いつもいつくしみ深かった。
「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」
この表現も、裁きの場に引き出された主イエスを思い出させる。イエス様は鞭で打たれたり、唾をかけられたり、茨の冠をかぶせられて辱しめられた。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ53:7)
語ることも聞くことも主の賜物です。耳を造り、舌を造られたのは主です。時には沈黙することもあるが、恐れて退くのではない。いつも沈黙が最善だと言うわけではない。
いわれのない仕打ちを受けた時、如何にするか。無抵抗主義者の如くひたすらに我慢するのだろうか。イエス・キリストもいつも沈黙しておられたわけではない。
しかし、声を上げることが出来ない状況もある。預言者エレミヤは「打つ者に私の背中をまかせ・・」(53:7、エレミヤ哀歌3:25-33)という経験をした。しかし、これは敗北ではない(ローマ5:3-4)
「神である主は、私を助ける・・・私は、侮辱されなかった」
主イエスの十字架の光景を思い出してみよう。弟子のユダに裏切られ、恩知らずな群集に拒まれ、優柔不断なピラトは裁判放棄をし、弟子たちは逃げ惑った。
見世物同様に処刑されたイエス様。こんな不条理、無残なことはない。まさに闇の支配を見る思いがする。主イエスが絶命されたときは、文字通り闇が覆った(ルカ23:44-45)
しかし、ルカ福音書の著者は、その真っ只中で神の御わざが始まっていた事を見逃さなかった。
ルカは、十字架刑の苦しみを持て余し、直前までイエス様を罵倒していた犯罪者の一人が、突然回心した事を告げている(ルカ23:42)
また、死刑執行の責任者であった百卒長も、主イエスに一番近くいた者として告白を余儀なくさせられた。「ほんとうに、この人は正しい方であった(神の子であった)」(ルカ23:44)
さらに、隠れキリシタンのようなアリマタヤのヨセフがいた。彼は決断を迫られた。彼は社会的な立場を憚って、これまで沈黙を保ってきたらしい。しかし、最早沈黙してはいられなかった。
彼について「この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた」(ルカ23:52-53)と証言されている。
「だれが私を罪に定めるのか」
パウロは、この言葉を誰よりも良く心に留めたらしい。彼は、自分の過去を思い出すと、慙愧に絶えなかったであろう。世間では取り返しのつかないこととして放り出される外ない。
しかし、パウロはローマの信者に書き送っている。即ち「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(8:1)
「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」(ロマ8:33)
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(8:34)
そして最終的な確信は「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ロマ8:37)と大胆不敵です。
人々の状況は極めて深刻です。人々が手にしている灯火は、闇を照らすには不十分です。むしろ、幾分か見えると言い張るところに傲慢が宿り、正しく見る事を放棄し、真理から遠ざかる結果になる。一人よがりは捨てなければならない。自分から出たものが頼りにならないことに気付く者だけが、真理の言葉に飢え渇き、求めて得るのではないだろうか。
燃えさしは、燻りつづけて、いつかおのれの身体を焼き焦がすことになりかねない。かたくなな不服従と傲慢は自滅せざるを得ない(詩篇57:6)