イザヤ書5章

イザヤ05 ぶどう畑とその審判

この章では、預言者は神とユダを農夫とぶどう畑になぞらえて語る。ぶどう畑とぶどうの木、その果実とぶどう酒は、聖書の世界では古くからなじみ深い。創世記9章20節は、ぶどう畑とぶどう酒をノア起源とする。

ぶどうは、いちじくやオリーブとともに、パレスチナを代表する果実である。わがままなアハブ王が欲しがったのは、ナボテのぶどう畑であった(Ⅰ列王21:1)このために、王妃イゼベルは、偽証人を立ててナボテを殺害した。

手厚く手入れされて、糖度の高い果実を実らせるぶどうは、神と神の民を語る恰好の材料である。イザヤは、ユダをぶどう畑の比喩で語る。

後の預言者エゼキエルは、ぶどうに託してユダを痛烈に批判した「人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか」(エゼキエル15:2-3)と。ぶどうの木は実を結んで意味がある。

イエス様も、ぶどうの枝として弟子たちに語る(ヨハネ15章)そこでも「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」と指摘しておられる。

Ⅰ ぶどう畑の歌(1ー7)
「わが愛する者(エディーデ)」(Ⅱサムエル12:25では、ソロモンの愛称、これは、ソロモンの父ダビデの名に通じるもの。ダビデも愛される者の意)
この語は、恋愛詩・雅歌に頻出する。一般的には、神が愛の主体として用いられる(申命記33:12、詩篇60:5、108:6、127:2、エレミヤ11:15など)
しかし、ここでは、預言者イザヤが自分の内にたぎる神への熱愛を込めてかくの如く呼びかける。
「良いぶどうを植え」(エレミヤ2:21、5:10、エゼキエル19:10、ホセア10:1)
創造主、ことにアブラハムを選ばれた神は、肥えた山腹を耕し、石を取り除き、良いぶどうを植え、やぐらを立て、酒ぶねを掘って、甘いぶどうを待ち望んだ。しかし、酸いぶどうができたと慨嘆する。
確かに、神はさすらいのアラム人を選び出した(申命記26:5)。
エジプトの地で奴隷の境遇にあったイスラエルを導き出されたのである(出エジプト20:2)
決して優良な苗木を用意したのではなかった。それだけに周到な保護を加えてきた。
どこに問題があったのだろうか。
主イエスは、ぶどうのたとえで「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」と言われた。
預言者も同じ思想を抱いている「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(43:7)と。
「何か私がしなかったことがあるのか」と主は問われる。これ以上なし得ないほど、主は懇ろに導かれたのであるが、ユダは応えなかった。
それ故、預言者は断罪する「わたしは、これを滅びるままにしておく」と。パウロも同じ理解を示した「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」(ローマ1:24、神の慈愛と峻厳11:22)
創造者が望まれた実り、公正(ミシパート)は流血(ミスパハ)に、正義(ツェダカー)は泣き叫び(ツェアーカー)に変質している。
このような語呂合わせは、緊迫している預言者活動のなかでも、しばしば見られる(これは、遊びではない。人々の記憶に残り易いように用いた知恵ではないか。エレミヤ1:11-12)
預言者たちは、イスラエルをぶどう園(樹)として語ってきたが、これはまた、花嫁の直喩と考えられる。そこでは、愛に於ける不実の姿が伺える(エレミヤ2:2-3)

Ⅱ わざわいなるかな、様々な罪(8ー24)
「ああ(ホーイ)」は、文字通り「わざわいなるかな」と訳出したほうが、イザヤの激しい義憤を表現するのに適当ではないだろうか。イザヤ書には、ホーイが44回繰り返されている。しかし、この言葉そのものは、必ずしもわざわいを表現するものではない。創世記4:14では絶望、27:27では感動さえ表現している(創世記25:32、27:37、37:30、42:21などニュアンスが異なる)

1「わざわいなるかな。家に家を連ね・・・」
これは、マッチ箱を隙間無く立て並べた住宅団地の連想とは些か異なる。富む者、権力を持つ者たちが、土地を独占し豪壮な家屋を建設する有り様を描く。しかし「必ず、多くの家は荒れ廃れ」と宣言される。
神の裁きは、収穫に於いても種子の十分の一の凶作をもたらす(度量衡を参考に掲載する。1ツェメドは1くびきの牛が1日かかって耕す畑の広さ。1バテは23リットル、1ホメルは230リットル、1エパは23リットル)豊作や凶作が有るのは、どの様に対応するかが試みられる時。
2「わざわいなるかな。朝早くから強い酒を追い求め・・・」
貴族も民衆も飲酒・音曲・饗宴に耽り、贅沢三昧の生活をしているが「主のみわざを見向きもしない」
創造者を讃えない芸術・文化を手放しで歓迎することは出来ない。言論や表現の自由などは、先人たちの苦闘の末に勝ち取ったものであるが、今日の“何でもあり”の風潮を憂える。
預言者は「万軍の主は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される」と語る。一時的な混乱はあっても、神の主権が脅かされることはない。
3「わざわいなるかな。うそを綱として・・・」
罪を戯れと考える者たちが横行する。罪責感を持ちえないほど心が硬化している。彼らは、背信的な言辞を弄して、恥じるところがない。
「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ」と嘯く。これは、16節に対する挑戦か。
4「わざわいなるかな。悪を善、善を悪と言っている者たち」
彼らには真実はない。ご都合主義と迎合があるのみ。事柄を真剣に取り組むことがない。自分を囲む環境の風向きにだけ心を用いる。舌先三寸の世界を作り出す。事実を歪曲して恥じない者たち。しかし、神は真実な方(Ⅱコリント13:8)侮ることは出来ない。
5「わざわいなるかな。おのれを知恵ある者とみなし・・・」
彼は「主を恐れる事が知識・知恵の始まり」(箴言1:7)である事を忘れている。偽装文化。
6「わざわいなるかな。酒を飲むことでの勇士・・・」
英雄気取りの酒豪。その実、公正な裁判一つ出来ない輩。

以上の姿が、2700年を経た今日の世界に、そのまま当てはまるのは不幸なことである。

Ⅲ 来るべき裁き
「主が・・・遠く離れた国に旗を揚げ・・・」
預言者は、外国の強力な軍勢の来襲を前にして“それを呼び寄せるのは主だ”と言って憚らない。これは、偏狭な人々には“非国民的な発言”として、早速、槍玉に挙げられるであろう。大概の愛国心は、敵を外に見立てて、内部の結束を図る。
しかし、預言者はグローバル的な視野に立つ。全世界は一人の聖なる神の前にそれぞれの責任を負う者であると認識している。神の裁きは、北イスラエルをアッシリヤの手に委ね、後に、南ユダはバビロンに託せられる(蹂躙される)「その日・・・イスラエルにうなり声をあげる」
その光景を「見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる」と描写せざるを得なかった預言者の苦悩はいかばかりか。この終わり方は8章22節に繋がる。光は失われ、未だ、希望は見えない。預言者の目に、希望の光が差し込んで来るのは9章に至ってからである。