イザヤ書49章

イザヤ49章       恵の時、救いの日の訪れ

私たちが直面している現実を見る目は、私たちのものであるにも拘わらず一様ではない。楽観的な人もあれば、悲観的な人もいる。そればかりではない。同じ人が、置かれた環境の違いで楽観的になったり悲観的にもなる(時には、家庭内のちょっとした行き違いで機嫌が良かったり不機嫌になったりもする)

人は大言壮語するが、その実、何と不確かな者ではないだろうか。それでも力を競い合って覇権争いを止めない。イスラエルの覚めた目は、そんな人の危うさを危惧して「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)と言う。

人間は、自分の弱さとご都合主義によって揺れ動き易い者であることを承知して、正しい判断を過たないために不動のものに目をそそがなければならない。軽々しく“神の視点に立つ”などとは言えないが、神の言葉を探求し、聖霊に導かれて真理に立つものでありたいと願う。

この章にも、神の思い、預言者の徒労感、イスラエルの不信仰から来る諦観などが見られる。

Ⅰ諸国民への光(1-6)

「島々よ。私に聞け・・・」とは、主のしもべ(メシヤ)の発言です。

主のしもべ、その実体は未だ明らかではないが、預言者にはその一面が見えている。

「島々よ」とは、6節の「地の果てまで」と同義であり、主のしもべの使命が全世界的である事を明らかにしている。

また、しもべの出現は思い付きではなく「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」と言う言葉に明らかだが、神の深謀遠慮から出ている。

さらに「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として」などという表現は、やがて来られるメシヤの厳しい一面を語る(ヨハネ2:14-17、黙示録1:13-16)

「御手の陰に私を隠し」という言葉にも含蓄がある。これまで(41-48章)預言者は、ペルシャのクロス王に解き放たれることを期待していた。しかし、その思想はさらに深められ、主のしもべを登場させる。これは、旧来の主のしもべとは異なる新しい概念である。

預言者の神に対する信頼は変らないが、イスラエル解放のための期待は変遷してきた。基本的には悔い改めて原点に立つことであった。しかし、それが絶望的になった時、救いはイスラエルからではなく、異邦人クロスによってもたらされると語る。意表を突いたというよりも、イスラエルには冒涜的に聞こえたかも知れない。しかし、クロスが究極的な救い主になれる筈はない。そこから新たな探求が始まり、主のしもべがより鮮明に見えてきたのではないか。

「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす」

主のしもべがイスラエルと呼ばれているのは、喪失したイスラエル性を再び取り戻すためである。「わたしの栄光を現す」という言葉を考察してみたい。

48章に「わたしはわたしの栄光を他の者には与えない」(48:11)という言葉があった。それを考慮するなら、これが特権的な恩寵であることは頷ける。しかし、栄光とは何か。

ヨハネ福音書から、主イエスが言及した栄光について学びたい「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」(7:39)に始まり「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(12:23)と弟子たちを覚醒し「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」(13:31)と宣言し「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」(17:1)と祈る。

こうしてみると、イエス様の栄光は十字架の贖罪によって達せられることが分かる。この世がこの言葉を自己満足のために用いるのとは本質的にことなるのである。

「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」

預言者は、神の救いが全世界を包み込む日の来る事を疑わない。メシヤはイスラエルの救世主ではなく、すべての造られた者に救いをもたらす者として理解されている。福音はその通りであった。

「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある」

ここには、否定的な副詞が繰り返され、些か徒労感が漏らされている。しかし、もちろん、それでは終らない。私の報酬は神の手に預けられている。それ故失われる事はない。

さて、どんな報酬が考えられているのであろうか。一般論としては、主は「働く者が報酬を受けるのは、当然だ」(ルカ10:7)と語り、パウロも「働き手が報酬を受けることは当然」(Ⅰテモテ5:18)と理解している。しかし、福音が報酬目当てでないことは言うまでもない(Ⅱコリント11:7)

黙示録には「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(22:12)という言葉に出会う。

これを、冠という観点から考えてみる。今日でこそ、オリンピック競技の勝者には金・銀・銅のメダルが与えられる。しかし、古代ギリシャでは、冠そのものは花であったり草であったり、とにかく簡素なものであった。手ごたえのある冠ではなく栄誉としての冠が尊重された(今日では賞金王がもてはやされる。ギリシャ人の哲学には及びもつかない)

新約聖書の冠は、朽ちない冠(Ⅰコリント9:25)義の冠(Ⅱテモテ4:8)栄光の冠(Ⅰペテロ5:4)いのちの冠(黙示録2:10)などと語られるが、これは礼拝の道具にすぎない(黙示録4:10)

Ⅱ救いの日(7-13)

「恵みの時に・・・救いの日に・・・」

この言葉は「人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かって」呼びかけられた。降誕の知らせが、真っ先にベツレヘムの羊飼いたちに告げられたことを想起する。パウロはこの言葉「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」を引用して「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)と語った。

ここでは「国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう」と、捕囚の民に国土の具体的な回復を語っているが、預言者は既にそれだけでは飽き足らず、やがて、その先に新天新地が広がる。

Ⅲ疑うシオン(14-26)

神はイスラエルに懇ろであるが、不信仰な民は神を逆恨みする。曰く「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。

僻む者を癒す薬は無いらしい(詩篇18:26)が、主の扱いはここでも忍耐強い。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」と、母と乳飲み子の関係をとりあげて、イスラエルを説得する(最近のように、簡単に子捨てや子殺しが行なわれる世の中では、説得力が減じられた。エレミヤ31:20)

「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(出エジプト28:9、32:32、ルカ10:20)

雅歌は、愛の絆を美しくも力強く描写している(8:6-7。巷で戯れに女性の名を刺青する者がある)

「あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」

幾度繰り返されてきたことばであろうか。永遠のいのちとは主を知ることにある(ヨハネ17:3)

「すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る」

イザヤは、初めからそのような日の到来を待ち侘びていた「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」(11:9)

預言者ホセアも「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」(6:3)と促している。

イエス・キリストに対して無知であった事を悔やんだのはパウロである。それ故、彼は回心後、主イエスを知ることにまい進した「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3:7-9)

聖歌594番「なおも御恵を・・・なおも我がためにみうせし主を知らん」