イザヤ書48章

イザヤ48             ヤコブの家よ

前章はバビロンに向けて語られたが、この章はヤコブの家に語られている。言うまでもないことであるが、預言者の最優先課題はイスラエルに関することである。これが福音の根幹をなし、やがて普く全世界に発進されて「地の果てにまで響き渡る」ことになる。その点では、主イエスも同じルールに従って行動された(マタイ15:21-28)もちろん、臨機応変ではあったが。

Ⅰこれを聞け。ヤコブの家よ

「これを聞け。ヤコブの家よ」

預言者は、しばしば意図的にヤコブとイスラエルを使い分ける(単に文学的表現による場合もあり、時には無造作な用法もあろうが)

ヤコブはアブラハムの孫として波瀾万丈の生涯を送った。彼は神に対してひたむきな一面を持っていたが、その若き日の生き方は自己中心的でトラブル・メイカーでもあった。

神は、このヤコブを捉えて聖別し、イスラエルと改名した。ヤコブの子らが形成した民族は、ヤコブに与えられた名前イスラエルを称するようになったが、この民族もヤコブ性を背負っている。

イスラエルに与えられた特権は数限りない。イスラエルと言う名称、ユダが物語る神の選び、主の御名を知らされ、神との契約関係に入る。神を呼び求める事を知っている。しかし、彼らは「誠実をもってせず、また正義をもってしない」

「聞け」という言葉は、モーセに起源を発する。彼は、イスラエルに向かって「聞け」と始めた。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4-9)と。

後のイスラエルは、これは「シェマ」と呼んで尊んだ。しかし、ここでは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」という、彼らの誠実さが疑われている。

「確かに彼らは聖なる都の名を名のり・・・寄りかかっている」が、本質が見失われ、形骸化していることが指摘されているのである。このことは、よくよく心しなければならない。大切なものを保存するために、形式が整えられる。これは道理である。しかし、時間が経過すると本末転倒して、形だけが空しく君臨することがある。

Ⅱ新しい事、秘め事

「わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう」(42:9,43:19)

「新しい事」とは何か。イザヤは「新しい」という形容詞を多用してきた。その意味は、一様ではない。時間的な新しさは言うまでもないが、時には時間を超越した事、まったく予期しなかった新しい展開をみることがある。ここでは「秘め事」と一対になって語られている。

「それは今、創造された」とも言われる。この意味は難解であるが、9-12節の言葉から理解する外ないであろう。

先ず9節では、神の忍耐強さが語られている。

次の10節では、神の試練が紹介されている。

そして11節は「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない」と結ばれている。

しかし、残念ながら、これだけでは、神のなさろうとしている「新しい事」も「秘め事」も理解できない。それで「わたしの栄光」という言葉を手がかりに、新約聖書から探求してみたい。

福音書で「栄光」という言葉の使用は、マタイが4回、マルコが3回、ルカが9回。ヨハネは24回と断然突出している。それ故、ヨハネ福音書に限定して、イエス様の使われた「栄光」という言葉を検討してみたい。実際、ヨハネ福音書は「イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」(ヨハネ12:41)と証言している。

以下、雑駁だが、栄光の一面を理解することができるであろう。

ヨハネ7:37-39

「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」

ヨハネ12:23

「すると、イエスは彼らに答えて言われた『人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます』

この時とは、イエス様の十字架が確定的にときです。

ヨハネ13:31-32

「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた『今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります』」

ここで、今こそと言うのは、ユダが裏切りの決行に踏み出した瞬間です。後戻りはない。

ヨハネ17:1

「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」

主イエスに栄光が輝いていても、現されなければ見ることはできない。

ヨハネ17:5

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」

さらに、ヨハネ14:13、15:8、16:14、17:10、22、24などを熟読玩味していただきたい。

以上を要約すると、イエス様の十字架の贖いによって、神の栄光は無比のものとして輝く。預言者は、明白に語っていないが、既に御子の犠牲という神秘を垣間見ているようだ。

Ⅲバビロンから出よ

イスラエルはバビロン捕囚を忌み嫌い、ある者たちは徹底抗戦を主張して、エジプトに下った。それほどバビロンに降伏する事を屈辱と考えたのである。

しかし、バビロンがクロスに滅ぼされ、解放が告げられたとき、争って帰国したという光景は見当たらない。むしろ、祖国に帰る事を逡巡した者たちがすくなくない。それが、各地にユダヤ人が根付いた理由であろう。

考えてみると、およそ70年の捕囚期間、二世代に亘る時間の経過がある。すると、捕囚三世などはエルサレムを知らず、生活もその地に馴染み、移動は容易ではなかったであろう。

解放の民に期待されたのは「主が、そのしもべヤコブを贖われた」という喜びの凱歌を「地の果てにまで響き渡らせ」ることであったが、そのようにはならない。