イザヤ書47章

イザヤ47            バビロンの裁き

この章では、強大な力を誇って奢り高ぶっているバビロンに滅亡が宣告されている。長く雌伏してきたバビロンは、ネブカデネザル王の時代に旭日の勢いで台頭し、アッシリヤを滅ぼし、エジプトを破り、まさに破竹の勢いであった。しかし、その栄光は100年と続かなかった。ペルシャにクロス王が登場すると、覇者の席を速やかに明け渡した。

“盛者失衰”と言われるが、歴史を鳥瞰するならば、奢る勝者の結末は速やかに訪れる。“勝って兜の緒を締めよ”という警告はあるが、長く聞き従がう者は少ない。殊に、苦労知らずの世代が継承することになると、結末は見えている。

Ⅰ裁きの宣告と理由

「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ」

このような表現は比喩的です。バビロンの娘たちにのみ語りかけているのではない。

「娘」とは掌中の玉、かけがえのない大切なものの呼び名である。ここでは尊大なバビロン人全体と、文字通り誇り高い娘たちがオーバー・ラップしている。

「優しい上品な女」

諺に“馬子にも衣装”という。見せ掛けかもしれないが、他人の目を欺くには十分である。また、衣食が足りれば、些かの余裕ができて礼節も身についてくる。もちろん、このレベルでは、虚飾に過ぎないことは言うまでもない。しかし、世間でいう高貴とは、その次元ではないだろうか。

しかし、多くの人々にかしずかれ、贅沢三昧な日々を送っていると、自分が何者かであるような錯覚を持つ事を免れない。

「碾き臼をとって粉をひけ」

箸よりも重い物を持ったことのない娘に、臼をひく奴隷女を対比させている。

着飾っていた者たちは「裾をまくり、脛を出し」と、あられもない姿をさらけ出す。

「カルデヤ人の娘よ」

カルデヤ人は、バビロン人と同じ意味であるが、カルデヤという表現は賢人、占い師、魔術者の同義語として用いられる(ダニエル2:2)一般的には、バビロンは権勢を表現し、カルデヤは文明を表すといわれる。日本とヤマト、イスラエルとヘブル、ヤコブと言いイスラエルとも言う如く。

「あなたは彼らをあわれまず」

これは、バビロン滅亡の理由として語られている。

勝者は敗者に対して、生殺与奪の権利を得たと早合点する。それは、神なき世界の論理である。進化論のいう適者生存も、これと同類であろう。

神の創造における、万物の関係概念は「ふさわしい助け手」が原点である。それ故、国々の間でも一人がちを謳歌するのではなく、勝者にはバランスを保つ責任があるのである。

勝利と統治は、神からの委任と考えるべきものです。この謙虚な認識を失わなければ、己を滅ぼすこともないであろう。

しかし、大方は、自分に巡ってきた好機を千載一遇のチャンスなどと考える(何をやってもかまわない。やりたい放題と錯覚する)

歴史という舞台は、神が演出家であることを忘れてはならない。神のテストに適うためには、あわれみを忘れないことである。

主イエスは言われた「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう」(マタイ5:7)と。また、あわれみについては繰り返し教えている(マタイ9:13、12:7、23:23)

「自分の終わりのことを思ってもみなかった」

自分の終わりを見つめる視点を失ってはならない。しかし、盛んな時には見過ごされがちである。イスラエルの詩人は「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」(詩篇90:7)と祈る。

Ⅱバビロンの傲慢

「私だけは特別だ」

傲慢不遜もここに極まる。この表現は、イザヤが主の唯一性を主張するために繰り返し用いてきたものです。バビロンの意識は、文字通り神に代わるものであった。人間は神を目指す時、よかれあしかれ切磋琢磨して励むが、神に成ったとき破局が始まる。

「私はやもめにならないし、子を失うことも知らなくて済もう」

しかし、何の保証も有るわけではない。己を神とする妄想の中に有るに過ぎない。次の歴史のステージに対してなんの準備もない。奢りと自負心の産みだす息子は無知と言うべきか。時代の流れが読めず、直面する困難に対応する知恵の蓄積もない。

「これらは突然、あなたを見舞う」

滅亡はにわかに訪れるものだ。イエス様も終末預言の中で「滅びがにわかに起こる」と警告された。しかし、真夏の夕立のように、傘を開く間も無いほど突如としてやって来るものにも合理性がある。人は“晴天の霹靂”と呼ぶが、物理的には水蒸気が飽和に達し、これ以上持ちこたえられない結果である。罪と裁きも同様ではないだろうか(経済大国日本の高度成長とバブル崩壊、そして景気回復に打つ手無し)

「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」

人は、知恵と知識に貪欲なほど憧れるが、知恵と知識を正しく用いることは容易ではない。

パウロは「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」(Ⅰコリント8:1-3)と教える。

Ⅲ役に立たない宗教

「若いときからの使い古しの呪文や、多くの呪術」

これは、痛烈な皮肉です。人が、宗教の領域で、どれほど無知であるかをあげつらう。

後に、ペテロは「あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(Ⅰペテロ1:18-19)と記している。

宗教と言う看板は、時に横暴で、何の救いにもならないが、人の心を縛り付けて離さない。

バビロンの場合にも、なにかと助言する(口を出す)者は多い。人がいないのではなく、手だてが無いのでもない。むしろ、多すぎて翻弄されている様子が伺える。

偶像とは、平穏無事なときの体裁を整えているが、真に救いを必要とするときには何の役にもたたないのである。むしろ、混乱を増大させる。

「彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救う者はひとりもいない」

誰の責任でもない「自分かってに迷い出」たのである。自業自得と言うべきか。

しかし、53章に至ると、この身勝手な行動も包括する主のしもべが、預言者の目に見えてくる。即ち「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(53:6)

主イエスは「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ9:36)

実に「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20)と言われる所以である。

預言者は、罪の底知れない悪行を厳しく追及することによって、もっと深く広い神のあわれみを発見する「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)