イザヤ書46章

イザヤ46     バビロンの神とイスラエルの主

預言者は、偶像がどんなに滑稽なものであるかを既に論じてきた。この章でも、完膚なきまで打ち伏せる。人を造った神か、人が作った神か、一字違いだが両者には天地の相違がある。

Ⅰ重荷となる神々

「ベルはひざまずき、ネボはかがむ」(負われる神々)

ベルは、バアルのバビロニヤ形、即ちバビロンの主神マルドゥクをさす。ネボは、マルドゥクの息子であり、書記の神と考えられている。ネブカデネザル、ネブザラダン(Ⅱ列王25:8)などは、彼らの神・ネボに因んだ命名である。

預言者は、偶像の神々が家畜の背に乗せられて移動するときの滑稽な動きを痛烈に批判している。神の加護を求めてその像を戦場に持ち込む習慣は、イスラエルにも見られた(Ⅰサムエル4:3-5:11)武運拙く敗走の道を辿るときは悲惨です。敵に奪われないように、急いで安全な所へ移動させる光景をこのように皮肉に描写したと考えられる。

神々を粗略に扱う事はできないので、急を要する時には大そうな重荷となった事が推測できるが、神々が重荷となる姿はあわれと言うほかない(関東大震災や東京大空襲の時に、先祖の位牌を救い出すために、仏壇を背負って焼死した人が少なくなかったと聞く。鎌倉時代の高僧は、客に暖を取らせるために仏像を燃したという。あっぱれではないか)

Ⅱ背負ってくださる神

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」

4節には、神の強烈な主張がみられる。ヘブル語やギリシャ語は動詞を見れば人称が分かるので、人称代名詞を必要としない。これを用いるのは強調するときである。4節には「わたし(アニー)」が5回繰り返されている。

神は、私たちが母の胎内にいるとき、即ち生まれ出る前から御目にかけておられる。この愛は、私たちが老いさらばえて白髪になっても変らない。白髪は老いの象徴であり、それ自体は権威でも美でもない(創世記44:29、Ⅰ列王2:6)が、神が祝福して下さるところに慰めも栄光も宿る。

神の懇ろな扱いの理由を、口語訳も共同訳も「わたしはあなたたちを造った(アーサー)」と訳出している。今日風に言えば、製造者(創造者)責任です。ここでは、アーサーの訳語を明白にしておいたほうが文脈に適うのではないだろうか(参照44:2、24)

人生の初めから終わりまで、創造者は責任を負われる。神と堕落した人間の接点は、神が造られた事実にある。それ以外に、人間は神に相応しいものを何一つ持たない。創造者と被造物の関係性、これが罪人の最後の拠り所である。その意味では、選ばれた民も異邦人も異なるところがない。神の選びの下にあることは特権であるが、なんら誇るには値しないのです。

負われて運ばれる重荷に過ぎない偶像と、背負ってくださる頼もしい神。なんとも、みごとな対比ではないだろうか。思えば、人は神のかたちに似せて「相応しい助け手」として造られた。神のかたちには、計り知れない叡智が秘められているに違いない。しかし、その叡智が独善的で、他人を利用したり、時には搾取したり、抑圧したりすることにだけ向けられている憂いがある。

「相応しい助け手」と言う言葉の背後には、愛をもって仕える、即ち負うべき重荷のあることが推測される。もし、自ら負う事をやめて負わせることにだけ陥るならば、関係性の原点を見失っている所以である。心して、負うべき重荷と負ってはならない重荷とを識別したい。

創造者と人の手になる偶像とを同列に考えて、その矛盾に気付かない神概念の貧しきこと、ここに至る。イスラエルの神は負われず、負ってくださる(申命記32:11)

主イエスの言葉が思い出される「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)

主はまた「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(ルカ9:23-35)とも言われた。

因みに「背負う(サーバル)」と訳された言葉の原義は、重荷を負うことである。その重荷は重量だけの問題ではない。悲しみや痛み、屈辱感なども意味する。預言者は53章4節と11節に、この語を用いて来るべき主のしもべ(メシヤ)を描写している。

「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか」

すでに40章18、25節で論じてきた。造られたものには相対的な関係があり、類比や相違が見られるが、創造者は無比である。これを混同してはならない。

「東から猛禽を・・・」

ここでも預言者は、重ねて(41:2)ペルシャに起こるクロス王の疾風怒濤の世界制覇を語る。

クロスの本質は猛禽であるが、神の人材起用は自由自在、創造者は扱い上手です。すべてのものは神の命に唯々諾々従う。それが「遠い地から、わたしのはかりごとを行なう者を呼ぶ。わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする」と表現される。

顧と、神の民は優柔不断であった。主を知らなかったわけではない。主の御心を知らされていなかったわけでもない。しかし、危機に臨むと心が臆し、立ち上がって主に従う決断に欠けていた。

預言者は、異教徒の王たちがチャンスに恵まれると、いかに機敏に行動するかを語る「すぐそれを行い・・・すぐそれをする」と記す(口語訳、共同訳、英訳などは、ヘブル語「アフ」を「必ず」と訳出する)尻込みするイスラエルには、手厳しい言葉ではないか。

Ⅱわたしに聞け

「わたしに聞け(シィムウー)」

これは古典的な呼びかけである(シェマ、申命記4:1、5:1、6:4、9:1、27:9)1箇所引用しよう。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)

これをシェマと呼ぶ。それ故「聞きなさい」と言う言葉の響きは、単に言葉に耳を傾けるだけではなく、イスラエルを信仰の原点に呼び戻すおもむきがある(ヘブル語の「シャーマ(聞く)」という動詞は、前置詞を伴って「従がう」という意味を持つ)私たちも聞く事が大切であることは認識しているが“一応聞いておこう”などと、軽く使うことがある。聞く・信じる・委ねる・従うとステップを踏むのが、神と造られた私たちの間にある本来の関係性である。

「わたしは、わたしの勝利を近づける」

この表現は、形を変えて新約聖書でしばしば見られる。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)

「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マルコ13:29)

「主は近い」(ピリピ4:5)

「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです」(ローマ13:11)

「わたしの救いは遅れることがない」。

私たちの目には、神の救いが絶望的と考えられる時がある。しかし、神に遅延はない。人の不信仰が神の時を待ちきれないことはある。しかし、時は神の手の中にある。神は未だかつて、遅刻、無断欠席の汚名を負ったことがない。神は、神を待ち望む者に恵み深い。栄光は神に輝く。