イザヤ書45章

イザヤ45章        わたしが神、主である

45章では、三点ほどに絞って注目してみたい。最初に、主がペルシャのクロス王を起用されることについて、次に、繰り返しになるが「わたしが主である」と言われる神ご自身の主張について、最後に、地の果てに向けられた創造者の眼差し。

Ⅰ油注がれたクロス(メシーホォ・コレシュ)

クロスについては、前章28節でも簡単に紹介した(Ⅱ歴代36:22-23)

そこに用いられた「わたしの牧者」と言う表現は、クロスに対する格別な厚意を示すものである。しかし、この章では、異邦人であるペルシャの王クロスを「油そそがれた者クロス」という最大級の呼称を用いて紹介する。私たちの驚きもさることながら、イスラエルでは、受け入れ難い衝撃を感じたことであろう。異邦人の王が「油を注がれた者」として語られる聖書の表現は極めて珍しいが、皆無ではない(Ⅰ列王19:15では、エリヤがアラムの王に油を注ぐ)

油を注ぐのは、王、祭司、預言者の任職の儀式に不可欠であった(出エジプト40:15、詩篇133:2)ダビデは、その意味、即ち主から信任された使命の重さと、それに対して払うべき敬意を誰よりも良く理解していたようだ(Ⅰサムエル24:10)

ヘブル語のメシヤ(油注がれた者)はギリシャ語のキリストに相当する。ヘブル語の歴史の中で、メシヤは普通名詞であったが、後には唯ひとりの救い主を指すようになる。新約聖書の時代には、メシヤを待望することは、他ならぬ救い主を待ち望むことであった(ヨハネ1;41、4:25)それゆえ、旧約時代から新約時代への移行期には、少なからざる混乱があった。

ゼカリヤ書は、ゼルバベルと大祭司ヨシュアを油注がれた者と呼ぶ(4:14、6:13)が、これは来るべき唯一のメシヤを指すわけではない。メシヤ思想には、発展段階がある。

新約聖書では、キリスト(メシヤのギリシャ語訳)が、イエス様誕生の啓示(ルカ2:11)において明らかです。使徒達もこのイエスを唯一の救い主キリスト(使徒2:36)として提示した。ユダヤ教からキリスト教へ移行する中間時代の貢献である。

民衆がイエス様に勝手な期待を寄せて王にしようと試み(ヨハネ6:14-15)当てが外れると失意落胆して離反していくのは、メシヤ理解の混乱の結果である。

因みに「油注がれた(者)」は、旧約で39回(祭司・預言者に9回、王に27回、将来の救い主に2回、盾に一回)の用法がある。

預言者イザヤは、いわゆるメシヤ預言においてメシヤの超越性を見抜いていた。しかし、クロス王を「彼の油注いだクロス」と呼ぶことを躊躇わない。従がって、メシヤ概念はまだ完全に最終段階に至ってはいなかったのである。

神が全世界の創造者であることは今更言うまでもない。しかし、預言者がその事実を額面どおり受け止めた世界観・歴史観は驚嘆に値する(エレミヤ25:9 、イザヤ10:5)預言者たちは、神の前では差別意識を持たない。少なくとも、ユダヤ至上主義ではなかった。

キリスト教は、ユダヤ主義から脱皮して、福音は全世界に向けられ発進した。しかし、それで十分だろうか。異邦人世界も神の恵の下にある事実を十分認識しているだろうか。

クロスに対する評価は、バビロンでも良好であったらしい。しかし、クロスが主に帰依した証拠はない。主が、彼の公平と寛大さを用いられたのである。神は、いつでも、路傍の石ころからでもアブラハムの継承者を起こすことが出来るのである。アブラハムの子よ、奢るなかれ。

8節は、間奏の如き賛美。救いと義の不可分性

Ⅱわたしが主である(アニー・ヤーウェ)

預言者は、既に42章8節で「わたしは主、これがわたしの名」と掲げて御名を論じた。私たちも及ばずながら、その意義を確認した。しかし、預言者はこの章で「わたしは主(1回だけ神)」を7度も繰り返している。よくよく肝に銘じなければならない。

エリヤの故事が思い出される。彼は優柔不断なイスラエルの民衆に向かって「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(Ⅰ列王18:21)と決断を迫った。

主に向き合うと言うことは、八百万の神々と付き合うのとは異なる。曖昧な立場はありえない。心を尽くし力を尽くした潔い決意が求められる。

それを確認するために、預言者はさらに口を極めて「ほかにはいない(エイン・オード)」という表現を重ねる。この事実を見過ごしてはならない。これは43章で1回、44章で2回しか使われていないが、45章では9回にも及ぶ。

この事実は強調に価する。「わたしは主」という言葉と「ほかにはいない」と言う言葉とは、真実の表裏をなすものである「ほかにはいない」と言う裏打ちがなければ「あなたは主」という告白も曖昧にされ、なし崩しになるのではないか。神を選び告白することは、外の神々を捨てることです。

預言者は、混沌とした時代に向かって、改めて神ご自身の御名を明らかにする必要を感じているので、以下、敢えて42章の文章を一部繰り返し記しておく

神の御名は、アブラハムの信仰の旅路で次々と明らかにされてきた。

「いと高き神(エル・エリヨン)」(創世記14:19)「エル・ロイ(見たもう神)」(創世記16:13)

「全能の神(エル・シャダイ)」(創世記17:1)など。これらの神名は、一つ一つの危機的な経験を通して、無限の神の一部を啓示された記念である。

神名発見の圧巻はモーセの経験にある。モーセは、エジプトを逃れてミデアンの荒野に住み、年老いて失意の中にあったであろう時に、神の啓示を受けた。神はモーセに、ご自分の御名を「主」であると明らかにされた(出エジプト3:13-15、6:2-8)

主(ヤーウェ)とは、これまで与えられた名前よりも、根源的な意味を持つと考えられる。なぜなら、神はご自分を「わたしはある(エフイェ)」と言われ、ご自分こそ存在の根源、創造者である事を明らかにされたからである。この「エフイェ」が三人称の形をとり「ヤーウェ(主)」と呼ばれる。ユダは、主という御名を忘れたわけではないが、その言葉のもつ意味を今や見失っている。

Ⅲわたしを仰ぎ見て救われよ

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」

「わたしを仰ぎ見よ」と言う表現は、イスラエルでは慣用的に用いられてきた。その原点は、モーセが荒れ野で青銅の蛇を竿頭に掲げ、イスラエルに呼びかけた事に由来する(民数記21:8-9)

これは、イエス様によれば、主の十字架の雛形である(ヨハネ3:14)

預言者アモスは、神に帰らない民を嘆き、エレミヤも「神に帰れ(シューブ)」と叫び続けた。神に帰るには、明白な方向転換が必要である。神の顔を仰ぎながら、目を放さず歩く必要がある(ヘブル書の記者はイエス・キリストに目を止めて走れと命ずる12:1)

主を仰ぐ者、主に帰る者、悔い改める者は、同じ意味で使われている。彼らはかくして救われる。

驚くべきことに「わたしを仰ぎ見て救われよ」という呼びかけは「地の果てのすべての者」になされている。これはまさしく福音宣教の先取りである。

主イエスは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命じられた。

そして「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒の働き1:8)と保障された。

その恩恵は、今日、私たちにも届いている。

福音とは「良い知らせ」のことである。イスラエルでは「良い知らせ」は共有するものだという認識を誰もが持っていた「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」(Ⅱ列王7:9)