イザヤ44 わたしの選んだエシュルンよ
前章の終わりは「あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが罵られるようにした」(43:27-28)と、厳しい言葉で結ばれている。
神の民が置かれた極度に困難な立場は、歴史的な罪の堆積による結果であり弁解の余地がない。厳しい現実を神の裁きとして受け止めなければならないことが宣告された(昨今報道されるゴミの巣窟のように、どこから手を付けたらよいのか途方に暮れるほど)
しかし、神はイスラエルをまったく見捨てられたのではない。この章では、神が憂い、神が心を砕き、悲痛な呼びかけをしておられる。
Ⅰ今、聞け(1-8)
「今、聞け…恐れるな、わたしのしもべヤコブよ」(41:14、43:1,5、44:2,8)
神の呼びかけは、神とイスラエルの関係性を、先ず原点に遡って思い起こさせる。
「わたしのしもべヤコブ」は「わたしの選んだイスラエル」である。
先祖ヤコブは、神の前に誇りうる何ものも持たなかった。ヤコブの記録は、一生懸命ではあったが利己的な男の記録にすぎなかった。彼の通った後には、修復しがたい問題が山積されていた。しかし不思議なことに、神はヤコブに目を留めてくださり、彼の尻拭いをしてくださった。そして、ヤコブをイスラエルと改名してくださった(創世記32:28)
それ故「ヤコブの神」という表現は、自らをヤコブと認めつつも、ヤコブをお見捨てにならない神に信頼と望みを託した信仰の告白である。預言者は、しもべヤコブをお選び下さった神を掲げる。
「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主」
さらに神との関係は深い。人工中絶をする者たちは、胎児の人格を何週間、何ヶ月といった数量的な論じ方をする。詩篇の139篇13-15節を参照していただきたい。
パウロは、神の選びが遠大な事を語るために「神は、私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(エペソ1:4)と記す。
「わたしの選んだエシュルンよ」これは「わたしの選んだイスラエル」と同じ意味。イスラエルをエシュルンと言い換えたのはなぜか。エシュルンはイスラエルの短縮形。詩的愛称として用いられた(申命記32:15、33:5、26。申命記以外ではイザヤ書に一度だけ)
ここには、心を頑なにしている者に対して、忍耐強く繰り返し呼びかける神が見られる。
ギリシャ語訳聖書は「神に愛せられた者」と意訳する。使徒ヨハネが手紙の中で「愛する者たち」と呼びかけるのは、この慣用的な用法に習ったものであろう。
神とイスラエルとの関係がこれだけ懇ろに確認されるならば「恐れるな」というメッセージも所を得ることが出来る。
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない」
この言葉も始めてではない。既に何度か繰り返されている(41:4、48:12)それはやがて、黙示録で際立った引用がされることになる(黙示1:8,17、21:6、22:13)
戦場で先陣を任されるのは、名誉なことであるが危険が大きい。また、殿(しんがり)ほど重要な務めもない。神の民はこれほどに手厚く保護されている(イザヤ52:12)
ドイツの田舎では、家の最後の戸締りを必ず一家の主人がする風習が残されていると聞く。決して使用人任せにしないのは、聖書に基づいた主人の責任の表れだと言われる。
6節では「わたしのほかに神はない」と断定し、8節では「わたしのほかに神があろうか」と問い直す。この表現も43章から46章まで、幾度も繰り返される
神に並ぶ者が有る筈がない。こんなに明らかなことはない。しかし、実際にはこの点で誤りを繰り返している。それが偶像問題を引き出すのではないか。
預言者は、9節以後20節に亘って、偶像が滑稽なものである事を悟らせるために言葉を費やす。
Ⅱ空しい偶像(9-20)
預言者は、偶像問題に関して厳しい言葉を浴びせる。曰く「むなしい」「役に立たない」「見ることも、知ることもできない」「恥を見る」と(Ⅰペテロ1:18-19)
偶像の空しさは「それを細工した者が人間にすぎない」の一語に尽きる。
技術・工芸品としての価値を否定するものではない。みごとな作品はたくさんある。しかし、罪深い人間が、神に代わる者を作り出すことが出来るだろうか。
12節では、作り出す者の労苦が描写されている。そこでも、製作者は有限である。作品としては傑作もあろう。道具や火を用い、力を尽くして造る。設計も周到で、仕上がりも美しい。材料の選択も厳密であるが、矛盾に気づかない。
その資材たるや「それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって『ああ、暖まった。熱くなった』と言う」
人は“仏を作って魂を入れる”というが、誰がどんな霊を入れるのか。
創造者は、人を土塊から造り、ご自分の霊を吹き込まれ(創世記1:7)人は生きるものとなった。
「細工する者は」は、自分の作品に己以外のものを吹き込むことができるのだろうか。所詮、製作者以上のものではありえない。自分で作り出したものを神とするのは滑稽ではないか。いや、むなしいと言わざるをえない。
預言者は、このような現実を「灰に憧れる者」と結論付ける。偶像の材料である木片が、燃えると灰に帰するからである。灰はちり(人の原材料)に通じる。すると、偶像製作は、ちり(人)による灰作りである。決して神を作りだす作業ではない(エレミヤ17:5-8)
Ⅲエルサレムの再建(21-28)
預言者は、イスラエルに向かってダメを押すかのように、言葉を重ねる。
「わたしが、あなたを造り上げた・・・わたしは、あなたを贖った」
神は、私たちに対して二重の所有権を持っておられる。一つは「創造者」としての所有権である。もう一つは「贖い主」としての所有権。自分がどなたに帰属しているか忘れてはならない。
神は、ご自分が造られた者に、かくまで手間を掛けられたのである。それ故「あなたは、わたしに忘れられることがない」(出エジプト2:25, 創世記8:1)と言明する。
神の創造は「非常に良かった」(創世記1:31)神に似せて造られた人は、創造の冠であった。神は罪に汚れた人間を惜しんでくださり、贖いの道を開かれた。
「あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った」と言われる神の贖いは、罪人を一新する(Ⅱコリント5:17)これは、創造に優る聖化であり(エペソ2:10)やがて栄化される(Ⅰヨハネ3:2)
最後に残されているのは「わたしに帰れ」という招きのみ声である。
「天よ。喜び歌え・・・地のどん底よ。喜び叫べ」
預言者は欣喜雀躍として賛美の声を上げる。いや、全世界に賛美を促す「知れ。主こそ神」(詩篇100:1-2)の心意気であろう。ベートーベンの第九は“全知よ、主の前にひれ伏せ”なのだが・・・。
24節で、再び2節の言葉が反復されているが、ここには贖いが見据えられている。
全地(万物)は、久しくイスラエルの贖われるのを待ちわびている(ロマ8:19)
「わたしはクロスに向かって」
クロスは、ネブカデネザルが再建したバビロン帝国を滅ぼしたペルシャの王(Ⅱ歴代36:22-23)
彼は、バビロンに捕らえ移されたユダを解放し、エルサレムの再建に好意的であった(エズラ1:1-5)預言者は、クロス王を「わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる」と大胆に語る。実際、神には敵味方がない(全世界は神の被造物)それゆえ、神の人材起用は自由自在である。
グローバルを口にしながら、ナショナリズムの枠から出られない人間の狭量は度し難い(北畠親房)