イザヤ書43章

イザヤ43     わたしのほかに救い主はいない

前章で、預言者は「わたしは主、これがわたしの名」(8節)と書き、主の御名を鮮明にした。しかし、神の民は主の御名を正しく理解したわけではない。

目に見ることの出来ない神を確信するには、徹底的な信仰が求められる。信仰を体験的に語ることには説得力がある。しかし、十分に気をつけなければならない。個人的な体験から想像的に神を創造してきた誤りはいくらでもある。

「主とは誰か」という問いは、御言葉に基づいて常に繰り返される必要がある。神の民は、主が誰であるか(どのようなお方か)を知っているつもりだが、その知識が日常的には十分生かされない。その結果、不本意ながら主を蔑ろにすることがある。

時には傲慢な者たちが出てきて、自分の権勢を誇り、愚かにも「主とは誰か」(箴言30:9)と嘯くことさえある。

預言者がここで語る主は、新説でも何でもない。誰もが知っている主ご自身の事実を繰り返し述べているにすぎないのである。この反復が、神の民には大切なようだ。

Ⅰイスラエルの創造者(1ー7)

「あなたを造り出した方・・・あなたを形造った方」

聖書は「初めに、神が天と地を創造した」という言葉で始まる。今さら言うまでもないことだが、私たちの信仰は、自分と自分を取り囲む全世界が神の創造物であることを認め、信じて受け入れることから始まる。

万物は流転するが、神は永遠に変らない「在る」と言われる方である。それ故、人は神を主と呼ぶに至った(出エジプト3:13-14)

律法は、主の聖なる御名を妄りに唱えることを厳禁している。しかし、主の御名に結ばれている者の特権もしっかりと心に刻みたい。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」

神の民も、自分が置かれている立場、或いは神との関係を見失うと、恐れが生じ不安に陥る。主の呼びかけは、三重の恩恵を思い起こさせて恐れから解放してくださる。

「恐れるな」この語を最初に見出すのは、アブラハムへの語りかけです。以来、全聖書を貫いて見出される。新約聖書では、イエス様や御使いが近づいてくる時の際だった表現であり、福音的語り口とされるが、旧約聖書に繰り返し用いられた用法でもあった。

「贖い」は、エジプトからの解放によって歴史的に行なわれた「名を呼ぶ」とは、十把一絡げの扱いではなく、私たちを個人的に知っていることの裏づけである(ヨハネ10:14、27、Ⅰコリント8:3)そして「わたしのもの」と言われる。私たちが神を所有するのではない。神が私たちをご自分の宝としてくださる(申命記7:6、14:2、26:18)のである。

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり・・・火の中を歩いても」

私たちも“たとえ、火の中、水の中”と言う。(古歌にも“火にも水にも・・・”という表現がある)イスラエルでは、紅海やヨルダン川を渡った経験や、ダニエルの友人たちの物語が想起される。

「あなたと共にいる」と言う言葉は、神の安全保障である。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

この言葉は、私たちを慰め勇気付ける。しかし、すでに述べたように、決して新しい言葉ではない(宝の民、申命記14:2、詩35:4)私たちの価値とは何か。神に造られたということにある。私たちは、愛にさえ理由を求める。しかし、創造者の愛は無条件、神は愛するのに理由を必要としない。

「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し」

イエス様は、ブドウの木のたとえで「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:8)と言われた。ブドウの美味をほめる者は、その作り手に思いを馳せる。私たちの人生に神の栄光が掛かっているとは驚きです。

パウロは「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」(Ⅱコリント2:15)と認識し、理解を促している。

Ⅱ神の主張(思い起こせる言葉を並べて)

この段落で繰り返されている主の主張を列挙してみる。

「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」

「わたしのほかに救い主はいない」

神は初めであり終わりです。神は唯一無比。神を相対化してはならない。

主なる神の主張は、一見排他的である。私たちは、概ね排他的であることを好まない。独善的だと非難したがる。しかし、相対的に受け止めるべきものと、唯一絶対のものとを混同してはならない。

例えば、夫婦の関係は排他的なものである。創世記2:19-24によると、人は相応しい助け手に出会う前に、相応しくないものを排除する事を学んだ。しかし、このケジメがつかないと、夫婦の信頼関係が害われ、家庭が崩壊する。

ことは、神の問題である。創造者か偶像に過ぎないものか、両者を混同する事は許されない。

「わたしは神だ。これから後もわたしは神だ」

「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」

聖歌に“今日まで守られ来たりしわが身、つゆだに憂えじ行く末などは”と歌う。神が永遠に変らないお方であるから、将来を託すほどの信頼が生れるのではないか。

ヘブル書の著者も「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(13:8)と証言している。

「わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう」

「見よ。わたしは新しい事をする」

人間の社会には、始めたけれど終れない(終り方を知らない)と言うことが多い(イラク戦争もその一つではないか。アメリカ国内の圧倒的世論に支持されて始まった。当時は、反戦を口にする高校生が登校できないほど異常な状況が作り出された。その背後には、ニューヨークの同時テロがあったのだが、今日では、テロで殺された人々(2750人)よりも多くの米兵が戦死(3000人以上)している状況に、国内世論が耐えられなくなっている)

人間は、真にやらなければならないことには手が付けられず、衝動的にのめり込んだ事柄からは容易に脱出できない。まことに度し難いものである(英国のブレア首相の登場も颯爽としていたが、彼の判断の誤りを国民は見過ごさない。不幸中の幸いは、彼も認めたようだ)

Ⅲわたしは新しい事をする

「わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける・・・わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ」

福音の曙に相応しい表現である。主の先駆者ヨハネが登場した時、主が公生涯を始めたとき、十字架の贖いが果たされたとき、ペンテコステを迎えたとき、いのちの大河が流れ始めた。「使徒の働き」は、その実現を雄弁に物語っている。

「この民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう」

イスラエルは「イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった」と言われても弁解の余地がない。しかし、主イエスの贖いに感謝し、聖霊に助けられた人々は「わたしの栄誉を宣べ伝えよう」と言われた言葉に違わなかった。

パウロのキリストに対する熱愛を思い起こす「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり・・・キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(Ⅱコリント5:13-21)