イザヤ書42章

イザヤ42            主のしもべの歌

この章の1-4節、49:1-6、50:4-9、52:13ー53:12、61:1-3、62:1-3などは、主の僕の歌と呼ばれている。言葉だけの問題に限れば「わたしのしもべ」という表現は、常に同じ対象を指しているわけではない。来るべき主のしもべ(メシヤ)を意味することがあり、イスラエルを指す場合がある(49:3)また、頑なで頑迷な者たちを指すこともある(42:19)

これらの歌は、前後の脈絡とはあまり関係なく登場して来るように見える場合がある。おそらく、預言者の瞑想・思索のなかで、突然の啓示のごとく閃いた断章と言えるのではないだろうか。

Ⅰわたしのしもべ(1ー4)

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」

預言者は、これまでも何度か「やがて来られる方」に思いを馳せてきた。9章や11章などは、救い主イエス・キリストを他にして説明することができない。

預言者は、来るべき方を9章で「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と、栄光に満ちた御名で呼んだ。しかし、この章以後は「わたしのしもべ」と言う表現を用いる。

「わたしのしもべ(アブディー)」

パウロは、ローマ人への手紙の冒頭で「キリスト・イエスのしもべパウロ」(ローマ1:1)と、自己紹介した。ギリシャ語原文によれば「パウロス・ドゥーロス・クリストー・イエスー」である。これは、神の恵を深く感謝し、自分を献げたパウロの謙虚な自己表現である(パウロを軽視したコリント教会には、召された使徒の権威を主張している・Ⅰコリント1:1)

神の人は、神のしもべであることを恥じない。むしろ、それによって襟を正し自分の覚悟を示す。しかし、しもべと言う言葉が表す立場そのものは、決して心を楽しませるものではない。主従の絆は服従の一語によって代表される。

イエス様は、自らすべての人のしもべとなって仕え、弟子たちにもしもべの道を教えられた(マタイ20:25-28)しかし、主イエスは、弟子たちをしもべ扱いはなさらなかった。むしろ「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15:15)と言われた。

以上の事を心に留めるなら、預言者が垣間見た「来るべきしもべ」の辿る道の厳しさがうかがい知れる。先には「力ある神」と表明したが、これ以後は「主のしもべ」として描写される。因みに、預言者ザカリヤは「見よ。あなたの王が来られる」と預言したものである。

「わたしの心の喜ぶ、わたしの選んだ者」

しもべが置かれている立場は厳しい。主人が誰であるかによって、しもべの立場は決定的になる。ここには、主が喜び選んでくださる確かな保証がある。新約聖書の著者は、イエス様が登場した時、この言葉が再び響き渡った事を繰り返し証言している(マタイ3:17、12:18、17:5)

「彼の上にわたしの霊を授け」

この霊は「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11:2)と語られた。霊性と正義がメシヤ性の証し(11:5)

その活動は「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」と言われる。

「傷んだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともない」

新約聖書をひも解くと、あらゆるところから“虐げられている人々の悲鳴”が聞えてくる。傷んで折れかかっている葦、希望の灯火が消えかかっている燈心になぞらえられる人々に、主イエスは誠にいつくしみ深い。主イエスは「私をあわれんでください(キリエ・エレイソン)」と言う叫びを、決して聞き逃すことがなかった(マタイ8:1、9:27、12:23、15:22、20:30)

この世は“適者生存”と嘯き“弱肉強食”を憚らないが「神の国では、後の者が先になる」

Ⅱわたしの名は主(5ー17)

「わたしは主、これがわたしの名」

預言者は、混沌とした時代に向かって、改めて神ご自身の御名を明らかにする必要を感じている。神の御名は、アブラハムの信仰の旅路で次々と明らかにされてきた。

「いと高き神(エル・エリヨン)」(創世記14:19)「エル・ロイ(見たもう神)」(創世記16:13)

「全能の神(エル・シャダイ)」(創世記17:1)など。これらの神名は、一つ一つの危機的な経験を通して、無限の神の一部を啓示された記念である。

神名発見の圧巻はモーセの経験による。モーセは、エジプトを逃れてミデアンの荒野に住み、年老いて失意の中にあったであろう時に、神の啓示を受けた。神はモーセに、ご自分の御名を「主」であると明らかにされた(出エジプト3:13-15、6:2-8)

主(ヤーウェ)とは、これまで与えられた名前よりも、根源的な意味を持つと考えられる。なぜなら、神はご自分を「わたしはある(エフイェ)」と言われ、ご自分こそ存在の根源、創造者である事を明らかにされたからである。この「エフイェ」が三人称の形をとり「ヤーウェ(主)」と呼ばれる。ユダは、主という御名を忘れたわけではないが、その言葉のもつ意味を今や見失っている。

「主に向かって新しい歌を歌え」

イザヤ書は、新しいぶどう酒、新しい力、新しい打穀機、新しいこと、新しい歌、新しい名、新しい天と地など、新しいを連発する。これは、単にリズムや詩の新しさではない。神の恩恵は日々に新しい(エレミヤ哀歌3:23)人は、すべての良いものを古びさせる。

「わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない」

神の御前では、見えない事を恐れる必要はない「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われる主イエスが導いてくださる。むしろ、主が案じられるのは「私たちは見える」(ヨハネ9:39-41)と言い張る人々のことである。

パウロも、知識を誇る人々に「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(Ⅰコリント8:2)と警告する。大事な事は「彼らを見捨てない」と言われる主に信頼することではないか(ヨハネ14:18)

Ⅲ盲目な主のしもべ(18ー25)

「わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳しいた者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか」

ここでは「わたしのしもべ・・・主のしもべ」と言う表現は、救いようのない盲目の中にある者として語られている。

彼らは、見聞きするチャンスが与えられなかったわけではない「多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない」傲慢で頑なな結果である。その結果、捕らわれたり略奪されたりして、苦難の道を避け難いものとした。

預言者は、それが主の配剤である事を指摘する。即ち「そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった」

ダビデ王は肉の弱さをまとった人であったが、神への畏敬の念は持っていた。彼は自分の罪を気づかされた時「主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません」(Ⅱサムエル24:14)と言って、裁きも主の手から受けた。失敗を犯すと逃げ出したくなるが、屈辱に耐えて悔い改めるところに再起の道が開かれる。

ステパノは、このようなイスラエルの歴史を概観して「神は彼らに背を向け、彼らが天の星に仕えるままにされました」(使徒の働き7:42)と断罪した。