イザヤ書41章

イザヤ41       わたしのしもべイスラエル

ユダはアッシリヤの猛攻に耐え、神の奇跡的な救出によって国難を逃れた(37章)しかし、その後のユダの歴史が穏やかに推移したわけではない。ヒゼキヤの後を継いだマナセは、稀に見る悪王だった(Ⅱ列王21:1-9、Ⅱ歴代誌33:1-13)伝説によると、イザヤは鋸でひき殺されたと言われている。そして、およそ百年後に、ユダもバビロンのネブカデネザルに屈し、捕囚の憂き目をみる。

ヒゼキヤ王と預言者イザヤ、ヨシュア王と預言者エレミヤの改革は、滅亡の日を先送りにしたが、ユダの滅びを回避することはできなかった。それほど深く腐敗していたのである。

それ故であろう。預言者はこの地上にある救いにのみ捉われないで、神の永遠の経綸に目を向けるようになる。イザヤ書の40章以後は、ユダの救いという枠からはみ出して、世界の贖われる日を待ち望ませるようになる。

以後、預言者は、神がいかなる方であるかを改めて繰り返し述べ、やがて贖いの奥義を見せられ、ついには「新しい天と新しい地」を待ち望むに至る(イザヤ65:17、66:22)

Ⅰわたしがそれだ

「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう」

預言者は、ユダにのみ語りかけているのではない。全世界を神の前(法廷)に呼び出している。それは、神が全世界の創造者であり、全世界は神の被造物だからである。

近年、グローバルという言葉がもてはやされている。結構なことであるが、実情はお題目にしているにすぎない。国連のような場で、どの国も自国の権益擁護に汲々としている。グローバルとは、全世界的な視野で物事を見ることではないか。それは預言者にだけ可能なのか。

「だれが、ひとりの者を東から起こし」

これは、ユダをバビロン捕囚から解放したペルシャのクロス王のことである(Ⅱ歴代誌36:22-23)歴史的には、一人の王がペルシャに起こり、破竹の勢いで進軍した様を「まだ歩いて行ったことのない道を安全に通っていく」と表現した。クロス王は、神の深き導きのもとでユダに厚意を示した。主がその心に触れるなら…誰も予期できない事が起こるのである。このようにして、ペルシャの出現はバビロンに終焉をもたらせ、ユダに解放を与えることになる。

ここで、預言者が意図しているのは「だれが」と問いかけ「わたしがそれだ(アニー・フー)」と、主なる神を提示することではないだろうか。読者は、神の外に「わたしがそれだ」と言える方がおられない事を心に留めよ。

私たちは、神が歴史の支配者(演出家)であることを時として忘れて慌てふためく。しかし、主こそ「初めであり、終わりである」(44:6, 黙示録1:8,17,21:6,22:13)

事を始めた方は、終わらせることが出来る。世界の創造者は、世界の審判者でもある。

Ⅱ思い起こせ

「わたしのしもべ、わたしの選んだヤコブ、わたしの友アブラハムのすえよ」

8節以下は、イスラエルを励ますために呼びかけられている。

三段構えの呼びかけ、懇ろでユダを高揚させる。己には誇りがなく、面目を持たないが、神は百も承知で選び、連れだし、捨てることがない。神の誠実は変わらない。

ヤコブとは何者か。自分の目的達成のために懸命に生きたが、トラブルメーカーでもあった。彼は押しのける者であったが、神は彼を選びイスラエルとした(創世記32:28)栄光神にあれ。

アブラハムとは誰か「さすらいのアラム人」(申命記26:5)ではなかったか。しかし、神はアブラハムを導いて、信仰の告白に至らせる(神が信仰を義と認める)イスラエルは、先祖アブラハムをいつの頃からか「神の友」と呼ぶようになる(Ⅱ歴代誌20:7)「主のしもべ」という表現は無数にあるが(イスラエル、モーセ、ダビデ、預言者、メシヤ)友はアブラハムにだけ与えられた呼称。

友という表現は、ギリシャ語もヘブル語も愛から発する(ヒレオーからヒロス、アーハブからオーヘイブ)それゆえ、友情は愛の結晶と言える。神とアブラハムの関係が偲ばれる。

箴言は「友はどんな時にも愛する」(17:17)と教える。私たちの主イエスは、未熟な弟子たちに向かい「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:13)と言われた。

このような関係性が明らかにされて、10節では「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」と約束される。

神の臨在が確認され、それが救いとなります。インマヌエル・ハレルヤ。

救うのは、神の義の右の手(創世記35:18)である。これは、イスラエルの義によるものではない。預言者は「恐れるな」と繰り返し呼びかけるが、呼びかけられた者たちは、決して自己認識を誤ってはならない。このように扱われたからといって、彼らが頼もしい何者かになったわけではねい。

預言者が代弁する主の声は「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々」と語りかける。主の使いが青年ギデオンに現れた時は、恐れるギデオンに「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」(士師6:12)と呼びかけた。自信のない若者を勇気付けてくださったのである。しかし、ここでは、そんな生易しい言葉は退けられている。背信を重ねたイスラエルは、虫けらに等しく、取るに足らないものであることを痛感する必要があった。

「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」

贖うという言葉の背景には、自己破産がある。たとえ奴隷に身を落としても償いきれない負債のもとにある状況が前提とされている。

これを救い出すにはどうしたらよいのだろうか。力ある者が、自己犠牲を惜しまず、代わって償う他ない。もし、そのような贖いが可能ならば、贖われる側の身分は問われないであろう。

たとえ、虫けらのようであっても、贖われるなら自由であり、解放される。しかし、虫けらのような者のために、進んで自己犠牲を払う者がいるだろうか。世間にも、そこの浅い慈悲はある。しかし“仏の顔も三度”と言って遮断する。

それ故、もし贖う者がいるとするならば、神ご自身にほかならない「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」と言われる所以である。

この奥義がつき詰められて、受難の神のしもべが思い描かれ、それは御子を他にしてはなく、メシヤを待望する信仰に凝集していく。メシヤ預言が明らかになっていくプロセスです。

受肉された主イエスは「七たびを七十倍」するほど赦す事を教え、贖いが恩恵である事をお語りになった(マタイ20:21-27)

パウロは、キリストの贖いを「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)と記し、さらに「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(ローマ5:10)と大胆に救いの確信を述べている。

「見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする」

この言葉は、この時点では裁きの器としての起用であるが、新約聖書的に表現すると「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです・・・神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:15-20)ということであろう。

今日でも、福音の証人は神の裁きの警告者である。それは、さらに積極的には、和解の使者として遣わされている事を認識すべきではないだろうか。